誰とも戦ってない。でも戦っていた夜

いつもの道に飽きた夜のこと

団子坂下にて不忍通り沿いを撮影

道には、習慣という名のレールが敷かれている。
ライブハウスからの帰り道、自宅に向けて車を走らせていた。
変わり映えのしない、走り慣れた道。
ふと、いつもと違うルートで帰ってみようと思った。
意味なんかない。脳が衝動性を制御できなかっただけだ。
スマホのナビを消す。
それは、「まあ東っぽいし」という感覚だけで動く渡り鳥のようだった。
迷子になるかもしれないが、それもまた一興。
どうせ本州から出ることはあるまい、という高をくくったような気持ちもある。
そしてわたしは自由を手に入れた。
誰も指示してこない。
次の信号、曲がれ?
知らん、直進だ。

ナビを捨てて、自由の味を知る(そして迷子になる)

案の定、というべきか。迷子になった。
知らない道、知らない景色、知らない交番。大丈夫です、わたし怪しくないです、という車内でのアピールも忘れない。
窓を少しだけ開けてBGMのボリュームを控えめにしておくのも、たぶんその一環だ。誰も見ていないのに。
正直に言うと少しワクワクしていた。
自由には迷子がつきものである。
というか、迷子にならない自由なんて、もうそれはナビ付きの不自由ではないか。

見覚えのある道、でも知らない道

しばらくして、ある道に出た。
あれ? 見覚えがある。でも、なんだこの違和感。
……ああ、なるほど。ここ、何度も通ってる道だ。ただ、逆方向だっただけ。
わたしの中の方向感覚係が「そうじゃない」と言いながら、地図をぐるぐる回していた。
景色というのは、方向が違うとここまで異なるのかと妙に感心する。
信号の位置、コンビニの角度、マンションの影。すべてが別の顔をしている。

とはいえ完全に逆方向に走っているわけで、自宅からどんどん離れて行ってることは間違いない。
Uターンすれば難なく帰宅できるだろう。
でもだめだ。
Uターンをするのはチキンなことであり負けである、という意味の分からないルールがわたしの中にある。
前進しか許されない。
そのためにスマホのナビを切っているのだ。

誰と戦っているのか?
自分とだ。
もちろんわたしがUターンをしなかったとしても、そこに勝者などいない。
勝ち負けの問題ですらない。
「誰とも戦ってない。でも、戦っている自分がいる」──というややこしい状態。
それは己に課した義務であり、守らなくてはならない誓約でもあった。
もちろん100%無駄である。
意味なんかない。
わかってる。
意味なんてなくても、そういうことはあるのだ。

勝利者インタビューの夜

いつもの道でまっすぐ帰れば20分で着くところを、1時間40分くらい走った。
Uターンチャンスのところで変えれば30分で帰り着くことも出来たし、日付変更線を超えることもなかった。
駐車場で車から機材を下ろしながら自らに問いかける。
「どうだ、これで満足か?」。
もちろん大満足である。
何ひとつ得ていない。どこにも着いていない。でもそれでよかったのだ。
道に迷って、脳内で自分と戦って、ちょっと勝ったような、たぶん引き分けだったような。
そんな夜が、なんとなく人生に効いてくることもある。たぶん。
少なくともわたしは、この夜を気に入っている。

おまけのようなあとがき

「効率よく帰る」ことと、「納得して帰る」ことは、似ているようでまったく違う。
誰にも見られていないひとりドライブのなかで、わたしはまた、わたしの面倒くさい取扱説明書を少しだけアップデートしたのだった。
……たぶんこの取説も、来月にはまた更新が必要になるのだけれど。
それでも、今日の改訂には意味があった……と、今のわたしは思っている。

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