「どこからでも切れる」の罠に見る人生哲学。日常の失敗から学ぶ自由の難しさ

「どこからでも切ることができます」
この一文、何度目だろう。いや、もう数えきれない。
何回信じたら学ぶんだ、自分。毎回だまされてる。まるで初恋かってくらい純粋に信じて、毎回うまくいかない。

さまざまな食品用小袋:わさび、からし、ソース、しょうゆ、トッピング、刻みネギ、唐辛子、ローストビーフソースなどの調味料パッケージが並んでいます。

繰り返される袋への期待と裏切り

なのに今日もまた信じてしまう。
袋を手に取り、切り口のあたりを指でつまんで、そっと裂こうとする。
……グニャ。

ミシン目はあった。たしかに切れそうな顔をしていた。
でも結果はいつも通り。なにひとつ裂けない。
裂けないどころか、見るも無残にひん曲がった切り口がこちらの様子をうかがってるようにすら見えてくる。

いや、わかってる。
袋がこちらを見てるわけがない。
でもうまくいかない日が続くと、そういう想像くらい勝手に生まれるのだ。

反対側からも試す。指の腹で押し、つまみ、爪で攻める。
歯でやるのは負けだと思ってる。でも、結局やる。
結果はどうか。
中身が変な角度でふいに出てきた。しかも、ほんのりぬるい。
なんだこれ。生き物か?

「どちらからでも切れます」の真実

「どちらからでも切れます」なんて書かれてたけど、実際には「どこからでも出てきます」じゃないか。
まるで袋のほうが意思を持っているみたいだ。
呼んでないのに、こっちのタイミングを無視して出てくる。
「開けた」というより「開けさせられた」感すらある。

そして今日も敗北。

台所で感じる敗北と孤独感

結局ハサミを取りに行く。
床がちょっと冷たくて、やけに静かで、
なんとなく笑われてるような気がする……のは気のせいだと思いたい。

でもうまくいかない日の台所って、だいたいそういう空気出してくる。

思えばわたしは、こういう親切な顔した罠にまあまあ引っかかって生きてきた。

日常に潜む、親切な顔した罠

シャンプーの「ワンプッシュで泡立ちます」も、泡立たないことのほうが多い。
魚肉ソーセージの赤いペラっとしたフィルム。あれをまともに剥がせたことが一度もない。
豆腐のパックは、ナナメに裂けてゼブラ柄のようになり、液があふれ手にかかる。

文明のやさしさは、わたしにはまだ早すぎるのかもしれない。

「どこからでも切れる」と言われて切れない袋と、
「自由にしていい」と言われても動けなくなる自分。
どこか似ている。
どこも似ていない。
でもちょっと似ている。いや、すごく似ている。

やってみて、失敗して、意外なところで開いたり、なにかこぼれたりする。
でも進むしかない。
袋は破れても人生は続くのだ。

ちなみに今日のパスタソースは、歯で噛み千切った封の端からこっちの意思と無関係に少しずつ出てきた。
「どこからでも切れる」とは言うけど、そりゃ確かに、こっちが望んでない場所からなら、いつだって簡単に切れるよな。

自由という名の見えない地雷

……これは袋じゃなくて、人生の話かもしれないと思った。

「自由な服装でお越しください」と言われたので、自由な服装で行ったら「もう少しTPOを…」と説教。
「自由に発言していいよ」と言われたので正直な意見を言ったら、会議後に呼び出し。
「好きな音楽をかけていいよ」と言われたので聖飢魔IIを流したら「それじゃない」と拒絶。

自由には自己責任という小さな注釈が付いてまわる。
ここまでくると注釈ですらなく、もはや悪意に満ちた地雷のようにすら感じられる。

そして最後はいつもハサミを取りに行く。
床が冷たい。キッチンは静か。袋の切り口は冷えた嘲笑のように開き、
「自由って難しいね?」とでも言いたげにこちらを見つめている。

ふと思う。
人生の選択肢は無限なんて言葉は、案外この袋と似ているかもしれない。
どこからでも選べる、と言われるけど、選んだ場所はだいたいうまくいかない。
袋はうまく切れず、人生も思うように進まない。

それでも、今度こそはと信じて、また挑んでしまう。
期間限定と書かれたコンビニスイーツをつい買ってしまうように。

袋も人生も、そんなものだ。
そしてわたしも、だいたいそんなもんだ。

……いや、ちょっと待ってほしい。

「どこからでも切れる」袋が映す現代社会

そもそも、袋がこんなに進化したのはいつからなんだ。
わたしが子どものころは、袋は手で切れないのが当たり前だった。
逆に、素手で袋を開けることができようものならヒーロー扱いされたはずだ。

それがいつしか、「どこからでも切れる」という、自由を無責任に保証する文明に変わった。
昔は「できた!」と喜べた成功体験が、
今は「なぜできない?」という失敗体験にすり替えられてしまった。

むしろ、「どこからでも切れない」と明記してくれたほうが親切なのではないか。
開けられなくてもそれが当たり前だし、たまに成功したら感動すら覚えるだろう。

そんな袋があったら、きっとこう書かれているはずだ。

『開きません』
『もう諦めてください』
『どうせハサミ使うんでしょ?』

……嫌だ。ものすごく嫌だ。
でも、なんて素直で嘘のない世界だろう。

「どこからでも切れる」なんて自由がありすぎると、わたしみたいな人間は逆にどこも切ることができない。
レジ前に置かれた「ご自由にお取りください」と書かれたキャンディーだって、誰も見てないのに一個しか取ることができないのがわたしだ。

選べる自由が多すぎると、結局どれも選べない。
自由な袋はわたしに、自由に決められない自分を毎回突きつけてくる。

……それでもまた、わたしはマジックカットを信じてしまうのだろう。
それは袋が悪いわけでも、自由が悪いわけでもなく、
わたしが「どこからでも切れる袋にふさわしい人間になりたい」と無意識に思っているからだ。

この袋を切り開くこと、それが神が私に与えた神聖なる使命なのだ。たぶん神は退屈してるのだろう。

そう考えると、いつか袋がきれいに切れた時、
わたしはきっと、人間として完成するのかもしれない。
その瞬間、袋からまばゆい光が放たれ、周囲から拍手が起こり、
「おめでとう。これであなたは自由を手に入れました」と祝福される。

そんな日は来ない。
でも、明日もきっと、わたしは袋を手に取るだろう。
そして敗北感に浸りながら、ハサミを取りにいく。

ハサミこそが、真の自由の象徴だったのだと気づくその日まで。

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