駐車場で起きた静かな譲り合いの儀式
駐車場でふと感じた誰かの気配

用事を終えて車に戻ると、すぐ後ろから誰かが歩いてきていた。
持っているキーの向きと、なんとなくの歩幅。
あ、たぶんこの人、隣の車の人だ。と気づくのに、時間はかからなかった。
その時、わたしはまったく急いでいなかった。
ただ、まったく同じタイミングでエンジンをかけるのだけは避けたい、という気まずさだけが、
なぜか大きく膨らんでいくのを感じていた。
例えば、正面から歩いてくる人と、右によけるか左によけるか、
お互いに同じ方向によけてしまい、しかもそれを何度か繰り返したあげく、
なんとなく笑ってしまうしかない時の、あの妙な一体感と、どうしようもない間のようなもの。
他人はそんなこと全く気にしてない。でもわたしは、わたしが気にしてるのを知っている。
どちらかが先に出ていった方が、世界がスムーズに回るのは間違いない。
しかしわたしは、我先にと先行するタイプではなく、むしろ積極的に譲りたいタイプなのだ。
「さあ、あなたがお先に」と、心の中で深々とお辞儀していた。
ふと、財布の奥に入れたまま忘れていたクーポンのことが頭をよぎった。
もう使えないのになんとなく取っておいてある、そういう譲りの感情もあるのではないか。
気まずさを中和する演技の時間
とりあえず、スマホを取り出す。
べつにLINEもTwitterも見ていない。
実は画面すら見ていない。
なんならロック解除すらしていない。
ただ「わたしは今、なんか見てます」という演技をしているだけの時間。
この時間に意味はあるのか?
ある。
これは私なりの時間のクッションなのだ。
マナーと気まずさの、慎ましい戦争
まさか……! と思って、思わず目を凝らした。
それを隣の人もしていた。
カバンの中をごそごそと。
どう見ても今じゃなくていい整理。
……同じ部族のにおいがする。
もしこの様子を宇宙人が観察したら?
これが、他人から見てどう映っているのか。そんな突拍子もない想像がふと湧いた。
もしこれが宇宙から観察されたとしたら。
たとえば、名もなき惑星の観測者の記録に、わたしたちのこの沈黙はどう映るのだろうか
《地球観察レポート:No.3421-β「ヒト属個体の駐車場行動について」》
報告者:第二観測知性体ユ・モアーン(※主記録係)
対象種族:ヒト属・都市生活個体群
観測地:駐車場(平面式/昼間)
本日、我々はヒト属都市型個体の「出庫」儀式に遭遇した。
対象個体Aは、自身の移動体(地球上では“車”と呼称されるもの)へ帰還したのち、後方より接近する別個体Bを感知。
即座にAは行動を“停止”し、なぜか通信端末(スマホ)を起動。
しかし確認したところ、該当端末はロック状態のままであり、実際には何の作業も行っていない。
これは擬似的な行動演出(偽装作業)であると判断される。
直後、個体Bも同様の偽装作業を開始。携帯用収納器(カバン)を開閉し、明らかに必要性のない整頓動作を行っていた。
このことから我々は、両者が同一種族内の特殊な精神プロトコル、もしくは非言語的な儀礼的譲渡行為に従っていると推測した。
特筆すべきは、両者が先に動くことを“避ける“方向で競争している点である。
地球文化において、これは譲り合いと呼ばれる行動様式に類似しているが、
本ケースでは明確なサインも、物理的なコミュニケーションも存在せず、全てが空気依存の意思表示として行われている。
我々の解釈では、これは「静寂による優位性放棄宣言」であり、
一種の“動かないことで勝ちを譲る”式の文化戦略である。
この様式は、我々マグリ星人が信じてやまない「先に飛ぶ者こそ勇者」という価値観とは、根本から異なる発想である。
優位性とは動きで示されるもの、という認識自体が、ここではどうやら通用しないらしい。
最終的に個体Aは、微妙な表情変化を伴って前傾姿勢を取り、視線を逸らしつつ鍵を起動。
これを我々は、内的服従意思の可視化=“心の中で深々とお辞儀”と解釈する。
極めて非効率ながら、地球文化における“礼節”と“同族認識”の交差点で発生する儀礼的動作と思われる。
特筆すべきは、同様の行動をとった他者を“同じ部族”とみなす、非言語的な同調反応である。
初期段階ではただの偶然的な動作同期と判断された。
だが時間経過と共にこの一致があまりにも自然に、しかし避けようのないものとして現れることに、観測班は翻訳不能な動揺を覚えた。
彼らは互いに目を合わせず、言葉を発さず、明確な合図も示さない。
にもかかわらず、何かが“了解されたような気配”だけが、静かに場を満たしていく。
この現象は、我々の理論体系では説明がつかず、明文化もできない。
何度観測しても、それは「ただ起きている」。だが、なぜ起きているのかは理解できない。
これはもはや儀礼でも文化でもなく、局所的な精神干渉現象、あるいは、人間関係における気圧変化とでも呼ぶべきものかもしれない。
マグリ星の言語体系には該当項目がなく、いかなる論理モデルも構築に至っていない。
我々は、ただ見て、記録することしかできなかった。
説明するにはあまりに深く、名付けるにはあまりに儚い。
よってこれは、“観測できるが理解できない領域”に分類される。
観察結果:
・対象個体間において、非言語的譲渡行動が発生(記録済)
・同調行動による所属意識の形成は……未確認のまま停止(ログ断片化)
・感情反応との関連性は未解明/分類:保留
※観測者コメント:
「言葉がどうしても届かない場所があった」
[データセクター37:不可逆的断絶により終了処理失敗]
[補足記録中断:03:18:41]
[観測ログ No.3421-β:異常終了]
……たぶん、今日はそんな気分だったのだ。
我に返ると、隣の人のカバンはまだ音を立てていた。
譲り合いはタイミングのゲーム
ここまで来ると、もはやどちらかが「先に行く勇気」を出さねばならない。
出庫というのは単なる運転行為ではなく、タイミングのゲームでもあるのだ。
わたしが先に出るのは、「譲ってもらったから」ではなく、「これ以上、この静かな譲り合いバトルを続けるのがしんどくなったから」である。
エンジンをかけ、ミラーを確認し、ゆっくりと出た。
すごく良い人を演じた気がした。
でも、なぜか負けたような、しっくりこない感情だけが残る。
優しさがぶつかる瞬間のモヤモヤ
思いやりとは美しい行動のはずだ。
しかしそこに、「自分もそうしたかったのに」「先にやられた」「やったけど負けた気がする」などという、面倒な感情が混ざることもある。
たぶんこれは、善意のかぶり事故。
お互いに優しさというレールに乗って、なぜかクラクションも鳴らさずに正面衝突したような気持ち。
見知らぬ誰かとの、静かな一戦。
そして誰も悪くないまま、全員ちょっとモヤモヤして帰るという一日。
それでも譲る気持ちはきっと大事だ。
ただ時には「自分も譲られたい」という気持ちが顔を出すことを、私はそっと肯定したいと思う。
たとえ口には出さず、運転席の中だけで呟かれたとしても。
(……でもあのカバンの整理、やっぱり今じゃなかったよね?)