水素水との邂逅、あるいは懐疑の始まり
わたしは、疑り深いタイプである。
占いを信じないし、パワースポットにも興味がない。
こう見えても意外と科学万歳な人間だ。
水素水? 鼻で笑う。ふふん。ふん、ふん。

水素水との初めての出会いはジムのサーバーだった
ところが、スポーツジムでふんふんと悦に入っていると、入り口近くに水素水サーバーが置いてあるのを発見してしまった。
「会員は飲み放題です」と書いてある。しかもわりとピカピカで、青いライトがなんだかかっこいい。
ふと、ボトルにそれを注いでしまう自分がいた。疑ってるはずなのに。
水素水は無味無臭で透明だった。あたりまえだ。
無意識に注いでしまった、その一杯に宿るもの
「スポーツジムに置いてある=効果あるんじゃないの?」という思考が、頭をかすめた。
……ちょっと待て、それはダメだ。
それって「テレビで言ってたから」と同じでは?と、自分で自分を戒める。
でも、テレビよりはジムの方が多少はマシじゃないか? いや、根拠はないが。
わたしの中に、小さな水素信者が住んでいるのかもしれない。
そいつは静かに「タダだし……飲んでおいても損はないよ」とささやいてくる。
それに対抗する懐疑派もいる。彼は「水に溶けた水素はすぐ抜ける。科学的には意味がない」と言う。
脳内で小さな信仰会議が開催される。議題は「タダほど高いものはない」。ついでに「シャンプーの詰め替え用は本当にエコなのか」も議論対象。
ついでにわたしはその日、着替えのパンツを持ってくるのを忘れていた。汗びっしょりで尻が冷たい。
信じられないのは、水素水か、それとも自分か。
疑い続ける自分への問いかけが始まる
疑似科学を疑っている自分を信じていいのか。
このあたりからすでに、脳の片隅で壊れたルンバが無言で回り始めるような思考にとらわれ始める。
そもそも「信じていい」と判断するその行為こそ、なにかの思い込みではないのか。
思い込みを排除しようとする強い思い込み。
いわば、アンチ信仰教の狂信者だ。
かっこよく言えばラディカル懐疑主義。かっこよく言わなければ、めんどくさい人。
「信じるのが怖いんです」などと真顔で言ってしまうと、恋愛こじらせた大学生みたいになってしまうけれど、実際、疑いすぎるとけっこう疲れる。
疑って、裏を取って、さらにその裏が本当かどうかを再疑問視して、Wikipediaの出典元まで読みにいって、最終的には「そもそもこの世界は存在しているのか?」みたいなところに行き着く。
こうして、スーパーで豆腐を買うだけだったはずの午後が終わったりする。
ちなみにわたしは一度、スマホを冷蔵庫に入れて、そのまま3時間探したことがある。
「記憶」という脳のサービスはわりと低品質。カスタマーサポートもない。
水素水を疑う前に、自分の知能を疑った方が話が早いのでは?と思ったが、その「疑う知能」すらあやしい。
つまり、わたしの疑いの土台が豆腐メンタルのようにぷるぷるしているわけである。絹ごしタイプで。
水に名前がつくと、意味が変わるのか?
コップの中の水素水は、ただの水のようで、やっぱりただの水である。
味に関して言えば、「これが水です」というド直球の自己紹介をしてくるタイプだ。
でもそれに「水素」という飾り文字がついただけで、どこかエラそうに見えてくるから不思議である。
名前って怖い。わたしも「CEO(自宅エリアの掃除担当)」と名乗れば、少しは威厳が出るかもしれない。
そんなラベル付きの水を前にして、ふと思う。
「わたしは今、水素水を飲んでいる」と思っているこの瞬間、本当にそれは起きているのだろうか?
いやそもそも「わたし」とは誰か。
誰が飲んでいるのか。
飲んでいることを信じていいのか。
水の飲み方ってこれでいいんだっけ?
などと考えていたら、立ちくらみがした。
おそらく水素水のせいではない。たぶん夜ごはん食べてこなかったせいだ。
でも水素水を飲んでいなかったらもっと立ちくらんでいたかもしれないし、もしかしたら水素パワーで空を飛べていた可能性だってある。
証明する方法はない。なぜならこの世界に「水素水を飲まなかったわたし」が存在しないからだ。
量子論的な話になってきたので、いったん靴ひもを結び直して気を落ち着ける。
答えのない問いと、毎日のルーティン
そして今日もジムで、水素水を飲んでしまう。
理由はわからない。でも、とりあえず無料だし。あとちょっとキラキラしてるし。
そのたびに、透明の神がこっそりウインクしている気がする。
彼(あるいは彼女)は、だいたいサーバーの横にいる。そしてわたしに囁く。
「意味なんて、後からつけておけばよいのじゃよ……」
うん、そうだ。それがいい。信仰心も体温も、だいたい常温が一番いいのだ。
でもほんとは……ちょっとだけ効いてほしいと思ってたりもする。