リサイクルボックスはごみ箱じゃない?自販機の隣に立つ無口な見張りの話
自販機のとなりの、あの無口なやつ
飲み物を買って、その場で飲み干す。乾いた喉を潤すその一連の動きの終着点に、必ず彼がいる。

透明な胴体に青いフタ。まじめな顔で、口数少なくそこに立っている。自販機のとなりに、まるで付き人のような立ち位置で。リサイクルボックス。いや、無言の見張りとも言えるかもしれない。
わたしが紅茶のペットボトルをその手に託そうとしたとき、ふと目に入った貼り紙。
「これはごみ箱ではありません。リサイクルボックスです。」
……うん。わかる。わかるんだけど。
「これはごみ箱ではありません」と言われましても
その一文は、なんというか、静かなる主張である。
確かに君は資源回収という使命を背負っている。ペットボトルに第二の人生を与える、輪廻の使者。
わかる、わかるんだけど……。
利用者にとってのごみ箱という感情の正体
でも。でもだ。利用者から見ればそれは、飲み終えた容器を手放すためのボックスであることに変わりはない。要は「飲み終わったから、あとはよろしく」の意思表示にすぎないわけで。
だからその「ごみ箱ではありません」と言い放たれたときの、利用者としての軽い拒絶感というか。
「君にそんなこと言われたくなかった」という、地味なショック。まるで旧友だと思っていた相手に「オマエを友だちだと思ったことはない」と言われたような、ささやかな裏切られ感があるのだ。
リサイクルの理念と、感情としてのごみ箱
「リサイクル」という立派な理念があることは、頭ではわかっている。
でもこちらとしては、飲み終わったから捨てたいだけであって、そこに生まれるのは“後処理感”だ。
つまり、気持ちとしては「ごみ箱」なのだ。あなたが何者かに関係なく、ごみ箱としての仕事を果たしてくれてありがとう、の気持ちなのだ。
もしもこれが、ペットボトルの魂を送る鳥葬の塔とかであったとしても、わたしはそれをごみ箱と呼ぶかもしれない。それが実態ではなく、感情だからだ。
分別の正しさと、リサイクルボックスの選民意識
もちろん、分別は大事である。わたしはペットボトルのラベルもちゃんと剥がすし、キャップも外す。
でも、どうしても感じてしまうのだ。このボックスの「選民思想」的な何かを。
自販機横にあるという立地はまさに、飲み終わった者たちによる無慈悲な行為さらされる場所。そこであえて「ごみ箱ではありません」と名乗る、やや高潔な姿勢。
……君、ちょっとプライド高くない?
ラベルがついたままだと嫌がられるし、中身が残っていると追い出される。飲み終えた者として、こんなに選ばれない感じってあるか?
捨てることに宿る、ちょっとした罪悪感と救い
それでもわたしは、今日もそのボックスに飲み終えたペットボトルを差し出す。
「ごみ箱ではありません」と書いてあっても、「まあまあ、そう言わずに」と心の中でつぶやきながら。
そこにはちょっとした罪悪感もあり、でもどこか「ちゃんとしたところに捨てたぞ」という安堵もある。
わたしが投げ入れるのはペットボトルであり、今日という一日の余韻であり、なんとなくモヤモヤした自己意識だったりする。
そして無言のリサイクルボックスは、それらをただ静かに受け取ってくれる。たぶん少しだけ眉をひそめながら。