バターを塗るように免許証を愛した話(そして穴を開けられた)
パンにバターを塗るときの哲学

焼きたてのトーストに、バターを塗るとき。
わたしは、真ん中から塗るタイプではない。端から行く。角を大事にしたい。
全体に行き渡るように、ちまちまと広げていく。
「いまバター、角の3mm分しか塗れてないな…」と自分でも思うけど気にしない。
潰れるパンがかわいそうだからだ。
わたしはバターを「愛」であり、「配慮」であり、「滑走剤」として扱っている。
財布の中のヒエラルキー
財布の中にはいろいろなカードが入っている。
ポイントカード、クレカ、保険証、謎の店のスタンプカード(有効期限2016年)。
でも彼らの中でボスだったのが、運転免許証だった。証明写真の中のわたしは、口角が不自然に上がっていた。免許の試験に合格した直後であり、大きなライフイベントに浮かれる気持ちを表情に出さないよう、必死に平静を装った哀しい結果だ。
でも「多分この人、道路で誰かをはねたりはしない」感が出ていた。
免許証の成長と、わたしの愛着
人間の赤ちゃんは、生まれると泣く。
動物の赤ちゃんは、母親に舐められる。
免許証は、発行されたあと、財布のカードスロットにしばらくうまく入らない。
最初はキツい。革がなじむまでの数日間、免許証は軽く反っていた。
反抗期だったのかもしれない。
でも私は、無言で押し込んだ。
「今日から君の居場所はここなのだよ」と心の中でささやきながら。
それ以来、仲良くやってきた。
雨の日も、雪の日も、免許証はそこにいた。
文句も言わず、運転中も財布の中でジッとしていた。
たぶんちょっと暇だったと思う。
穴の開いた日、心にも穴が開いた

免許更新の日。
流れ作業のように写真を撮られ、講習を受け、検査をされる。
そのとき、事件が起きた。
職員「はい、じゃあ古い免許証、こちらで穴開けまーす」
ガチャンッ!!
――えっ?
職員「はい、これもう使えません。返せませんので処分しまーす」
――ええっ?
その時私は、声にならない「え?」を2回出した。
ひとつは口で、もうひとつは心で。
免許証に穴が開けられた。
無表情で。何の感情もなく。たぶん無慈悲な道具で。
どこかで誰かが笑っていた気がしたけど、幻聴だったかもしれない。
パンはある、でも君はいない
家に帰ってから、わたしはパンにバターを塗った。
でも、何かが違っていた。
角から塗っても心がついてこない。
免許証が……いない。
穴を開けられて捨てられた免許証のことを思い出す。
あれは「無事故無違反です」と言葉を発することはなくても、無言でそう言ってるようなカードだった。
今ごろ、シュレッダーの中で「いやいやいや、ちょっと待って!」とか思っているのだろうか。
あるいは他のカードと再会しているかもしれない。
「よぉ、健康保険証」「おまえもか」
とか。
新しい免許証のわたしは、写真がまぶしすぎて顔が白く飛んでいた。
「この人、日光と闘ってるな」という印象を受ける。おそらく光属性のキャラだ。
これからまた、数年かけてなじんでいくのだろう。
バターを塗るように、ゆっくりと。
でも正直、あの古いやつのことはまだ忘れられない。
職員に没収される直前、一瞬視界に入った、無残に穴の開けられた免許証。「え、これ僕の穴?」とちょっと怒っているように見えた。
パンもバターも免許証も、なじむには時間がかかる。
でも一瞬で、穴は開く。
それがこの世界だ。
私は今日も、角からバターを塗る。
それが私の、ささやかな抵抗であり、弔いなのだ。

穴あき免許証からの手紙

どうも。元・免許証です。
突然ですが、穴、開けられました。
え? 何の確認もなく?
はい、ノー確認・ノー同意・フル破壊です。
完全に初見殺し。
私、ずっと財布の一軍でした。
クレカとか、保険証とか、あいつらよりちょっと厚みがあって、自分でもちょっと特別感あると思ってました。
でも更新日にパンチで穴を開けられて、即・戦力外通告。
人生って、そういうもんですか?
いや、カードなんですけどね私。
記憶とともに沈むプラスチック
最初のころはよかった。
発行されたての私はピカピカで、財布の中でも正直ちょっと浮かれてた。
「おれ、国から発行されたやつだから」とか思ってました。ええ、若気の至りです。
あなたが初めて車を運転した日、緊張でハンドルを強く握りすぎて、首と肩がタングステンのように固まってたの、見てましたよ。
あと免許取りたての頃、友達に「オマエの運転する車には乗りたくねぇ(笑)」って言われたのも知ってます。
反論できないだけに、地味に傷つきますよね。私は傷ついてなかったけど。
穴開けパンチの静かな破壊力
更新日当日。
まさか、あんな形で終わるとは思いませんでした。
職員に静かに持ち上げられ、無言で――
ガチャンッ!!
完全に油断してました。
せめて一言あっても良くない?
「これから穴、開けますね」とか。
「あなたの人生にひと区切りつけますね」とか。
ないんですよ。そういうの。
役所ってそういうとこある。
穴を開けられたあと、「はい、これもう使えません。これ、返却できませんので」って。
おい、お役所。それ3年間大切に扱ってきた相棒に放つセリフか? せめて視線くらい合わせてやれよ!
……処分って言うけど、どこに処分されるんですか?
カード界の黄泉平坂?
それとも、無事故だった人が見送った免許証の墓場?
行ってみたいような、行きたくないような。
さよなら、あの日の顔
更新後の新しい免許証、見ました。
あなた、光の反射で瞳孔開いちゃってるじゃないですか。
証明写真なのに、何も証明できない顔になってましたよ。
でもあれも“味”なんですかね。わかんないけど。
いま私は、書類シュレッダーの横に落ちてます。
こないだ期限切れの保険証と会いました。
「お互い、長生きしたよな…」とか言ってましたけど、正直あいつ1年で捨てられてたんで、勝ったなと思ってます。
あと、謎のスタンプカード(有効期限2016年)がずっと「まだ使える」って言い張ってて、地味にうるさいです。
たまに思い出してくれたらうれしい
……まあ、いいです。
過去は過去。
カードも前に進まないと。
でも、最後にこれだけは言わせてください。
何かのとき、たまに思い出してください。
最初の写真。
最初の運転。
最初のドキドキ。
そして、わたしのことも。
――穴あき元・免許証より

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免許の取得から、段階を経て、色々な経験を重ねていく自動車人生の軌跡。その人生は常に免許証とともにあった。今までありがとう…!