電池切れの悲哀。ガラケーすら裏切るわたしの迂闊さ

スマホ時代の充電忘れループ

スマホを手に入れてからというもの、充電することが日課になった。だが、問題はその日課があまりに頼りないことだ。スマホが、ではない。自分がだ。しょっちゅう充電するのを忘れるのだ。寝る前に「あ、充電しなきゃ」と思いながら布団に入り、翌朝には見事にゼロパーセント。スマホは冷たく沈黙している。

画面に映る自分への疑問

「まあ、しょうがないよな」と自分に言い聞かせつつも、どこか胸の奥がちくりと痛む。「これで社会人として本当に大丈夫なのか?」という疑問が、スマホの黒い画面に映った自分の顔を見つめながら湧いてくる。

ガラケー時代から変わらぬうっかり癖

いや、スマホの充電を忘れるだけならまだしも、ガラケーの時代ですらわたしは同じことをしていた。電池の持ちが良いと名高いあのガラケー。ほぼ放置していても数日はもつという、いわば忘れん坊の救世主のような存在だ。それすら頻繁に電池切れにしていた。しかも、ガラケー時代は充電は日課となっていなかったため、しばらく電池切れに気づかないのだ。

忘れられたガラケーと行方不明者疑惑

ある日、久しぶりにガラケーを開いたら画面に何も映らない。「あれ、故障?」と一瞬思ったが、ただの電池切れだった。たぶん数週間前からこうなっていたのだろう。連絡を待っていた友人や家族は、きっと私を「行方不明者」として扱っていたに違いない。

充電忘れと自己評価の急降下

そしてその瞬間、わたしは自分の無能さに打ちひしがれた。ガラケーの電池すら守れない人間が、果たしてスマホという文明の利器を使いこなせるのか? いや、それどころか、この社会に適応できるのか? この程度の管理能力では、きっと「人間失格」という烙印を押されるのだろう。

現代の自己管理と電池切れの象徴性

充電を忘れるという行為は、現代社会における「自己管理能力の欠如」の象徴である。スマホの電池がゼロになるたびに、自分の価値もゼロになったような気がしてくる。充電忘れは、もはや私にとって単なるミスではなく、人生そのものの縮図なのだ。

電池切れとわたしの生存戦略

「充電忘れを防ぐための努力をしよう」と普通なら思うだろう。だが、私はこう開き直ることにした。「電池切れは、わたしが社会と適度な距離を保つためのバロメーターだ」と。
スマホが沈黙している間、誰とも連絡を取らず、何もしない。そんな時間も大事なのではないか。とはいえ、翌朝また充電を忘れて慌てる自分が目に浮かぶ。もはや、これは一種の「個性」と呼べるのかもしれない。友人・知人から浴びせられる罵声は、神からのギフトに違いない。

そしてまた今日も充電を忘れる

社会不適合者か、ただのうっかり屋か――その狭間で、わたしは今日もスマホを充電し忘れるに違いない。

スマホ愛に驚くわたしの通信量

参考までに、わたしのデータ通信量を開陳します。だいたいこんなものです。もしかしたら皆さんにとっては信じられない数字なのかもしれないけれど、わたしにとっては皆さんのスマホ愛の方が不思議で仕方ないのです。だからわたしからの返信が遅くてもあんまり怒らないで欲しい……。

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