ベテランドライバーのクラクション。悲しみと申し訳なさの交差点
車の運転は自由の象徴である。だがその自由には責任が伴う。そしてその責任が一番重く感じられる瞬間は、ベテランドライバーからのクラクションを浴びせられた時だ。
ある日、信号が青に変わるのをぼんやり待ちながら、「今日はいい天気だなあ」とか、「あの雲、ちょっと鯛焼きっぽいな」とか、そんなことを考えていた。気づけば、後ろの車が「プッ!」と鳴らしている。いや、鳴らしているというより、鳴らされてるという感覚が正しい。
後ろの車を見ると、そこにはいかにもベテランドライバーという風貌の男性が座っていた。鋭い目つきでこちらを睨み、「青だぞ」という無言の圧力をかけてくる。その瞬間、わたしの中の罪悪感が爆発した。「ごめんなさい!」「本当にごめんなさい!」と心の中で土下座を100回くらい繰り返しながら、あわててアクセルを踏む。
でもちょっと待ってほしい。私は本当にそんなに悪いことをしただろうか? 信号が変わってから、せいぜい1秒か2秒くらいしか経ってなかったはずだ。それなのに、なぜこんなに責められるのか。わたしは法を犯したわけでも、誰かを傷つけたわけでもない。ただ、ほんの少し考え事をしていただけなのだ。それがいけないのだ、ということは分かってるのだけれど。
クラクションの音には不思議な力がある。その「プッ!」の一音で、自分の運転技術や人間性の全てを否定されたような気持ちになる。それがベテランドライバーのものだと、なおさらだ。彼らのクラクションには何か特別な重みがある。長年の経験と技術に裏打ちされた「おい、お前!」という無言の説教が込められているような気がしてならない。

ベテランドライバーのクラクションは、まるで人生の教訓のようだ。ほんの少しの油断や怠慢が他人に迷惑をかけるという事実を、スプラッシュシンバルのような音で叩き込んでくる。でもその音には冷たい非難だけでなく、「まぁ、次は気をつけろよ」という、温かい叱咤激励も含まれているのだ。……と信じたい。
クラクションを鳴らされたら、わたしはこう思うことにする。「今の一音は、ベテランドライバーからの洗礼だ」と。そして、心の中で「ありがとうございます!」と叫びながらアクセルを踏む。あるいは、リアガラスに「すみません! 初心者です!」と書かれたステッカーを貼るのもいいかもしれない。気分的には土下座 in CARである。それがベテランドライバーとの平和的共存の第一歩になるのではないか。