電車の奇跡。何もしないのにたどり着ける幸福
車移動がすっかり習慣化していたが、久しぶりに電車に乗った。そう。壊れた家電を倉庫から引っ張り出すような気分で、意を決して改札をくぐったのだ。

車移動のクセというのは恐ろしいもので、駅のホームに立っている間も「カーナビの音量どうしよう」とか「次の信号は赤だろうか」とか、脳が勝手に動いてしまう。だがその思考は電車がホームに滑り込んできた瞬間、音を立てて崩れた。
「あ、乗るだけでいいんだ」
電車に乗った瞬間の解放感はすごい。ハンドルを握る必要もなければ、ウィンカーを出す必要もない。交通渋滞? そんなものは存在しない。わたしはただ、座るか立つかの選択をするだけでいいのだ。そして座ったらその場でただの肉塊になればいい。
驚きはここからだ。わたしは座っているだけなのに電車は動き出したのだ!
「え、動くの? わたし、今、何もしてないけど!?」
しかもどこに行くのかを運転手さんに伝えたわけでもないのに、電車はわたしの行きたい目的地へ向かってぐんぐん加速していく。この「放っておいても運んでくれる」というシステムには、全知全能の神になったかのような錯覚を抱かざるを得ない。
車移動では常に緊張感が必要だ。前方の車間距離を保ち、標識を読み、ナビの指示を確認しながら進む。ミスをすればクラクションを浴びせられるし、最悪の場合は事故になる。だが電車では。何もしなくてもいい。手も足も使わず、ただ座って目的地に運ばれていればいい。これはもはや、奇跡だ!
途中でスマホを取り出してみたが、目の前の景色を眺める方が楽しかった。「窓ってこんなに大きかったっけ」とか思いながら、駅前の雑多な雰囲気や住宅街を眺める。何もせず、ただ動いている景色を眺めるだけの時間がこんなにも贅沢だったなんて!
電車というのは、文明が生んだ大人の託児所と言っていいかもしれない。運転士が面倒を見てくれる間、我々は脳死状態でただの子どもに戻ることができる。何もせずに運ばれるだけで、「自分って生きてていいんだ」と思えるから不思議だ。
わたしは決めた。たまには車を置いて電車に乗る。そして何もしないことを全力で行う。手持ち無沙汰なら、ポケットから飴でも取り出して、思うさま舐めるのもいいだろう。窓際に座って「わたしを運ぶ」という電車の偉業に無言で乾杯したいと思う。