積読が減ると不安になる。古本屋と読書好きの心理を考える
古本屋で大量に本を買う日は、少しだけ冬眠に似ている
読書が好きだ。
年に数回、古本屋へ行って、本を大量に買い込む。買い物かごの中に文庫や新書やよく分からない作家の本や、なぜ買ったのか会計の時点ですでに説明できない本が積み上がっていく。あの感じが好きだ。
あれは買い物というより、備蓄に近い。
雪に閉ざされる予定もないのに、なぜか心のどこかで「これだけあればしばらく生きられる」と思ってしまう。本を読む人間は、本棚を本棚として見ていない節がある。非常時用の食糧庫、あるいは精神用の非常口として見ているのかもしれない。そんなのおまえだけだろ、と言われれば全力で肯定するくらいの準備はある。
古本屋の棚というのは、妙にこちらの事情を分かっている感じがある。
世の中でいったん誰かに手放された本が、整然と並んでいる。そこにはすでに、いちど選ばれ、いちど離されたものだけがいるわけで、少しだけ人生経験のある段ボール箱みたいな空気がある。新品の本屋にはない、うっすらとした「あきらめ」と「再就職」の気配。
その棚の前で、私はかなり幸福だ。
他人から見れば、ただ無言で背表紙を抜き差ししているだけの、不審とまではいかないが、なるべくなら話しかけたくないタイプの人間に見えるだろう。しかし本人の中では、けっこう盛大な祭りが起きている。太鼓は鳴っていないけれど、脳内の隅で何かがそっと踊っている。
読書の喜びは、たぶん社交の反対側にある
この喜びは、他者との関わりに強い喜びを見出すタイプの人には、あまり理解されないのではないかと思っている。
もちろん、他者との関わりが楽しいことを否定したいわけではない。人と会って元気になる人は、それでいい。むしろ健全だし、たぶん正しい。たしか社会もそちらを推奨していたはずだ。
ただ、読書の喜びというのは、かなり密室的だ。
誰とも会わず、誰にも説明せず、ひとりで黙って座っているだけなのに、妙に満たされる。これはどう考えても、外から見ると変だ。健康的な散歩や、笑顔の絶えない会食と比べると、ずいぶん地味。地味というより、場合によっては留守番の延長にも見える。
しかし、その地味さがいい。
本を読んでいる時間というのは、誰かにちゃんと見せるための顔を一回外していい時間だ。人といるときには使わない脳のへんな場所が、ぬるく起動する感じがある。世界と断絶するというほど大げさではないけれど、世界からいったん半歩だけずれることができる。
この「半歩ずれ」が、私は好きなのだと思う。
完全に孤独になりたいわけではないし、社会を捨てたいわけでもない。ただ、常に誰かの視線の届く場所にいたくはない。人間というのは明るい居間だけでは暮らせない。たまには押し入れにも入りたい。押し入れの空気は少しひんやりしていて、思考に向いている。本はだいたい押し入れの親戚だ。たぶん違う。
年間300冊という数字は、ときどき変な顔でこちらを見る
読書の話になると、「年間300冊読んでいます!」というような言い方に出会うことがある。
あれに対して私は、うまく説明しがたい、やや排他的な気分になる。
別に冊数を語るのが悪いとは思わない。
本当にたくさん読んでいるのだろうし、それ自体はすごい。好きに語ればいい。そこに文句をつける筋合いは私にはない。ないのだが、心の奥のあまり上品ではない場所で、「他者アピールのために読んでるのかよ」と、ひょろっとした感情が顔を出すのだ。
その感情、自覚できる程度には感じが悪い。
でも、そういう感情は、いったん出てきた以上、「出てくるな」と言っても引っ込まない。湿った猫みたいに居座る。
だから私は、その人たちは私とは違う種類の趣味の持ち主なのだ、と解釈している。同じ「読書好き」という言葉を使っていても、中身はかなり違うのだろう、と。
たぶん、冊数を誇らしく語れる人にとって、本はある程度、達成の対象なのだろう。
一方で私にとって本は、達成というより滞在に近い。何冊読んだかより、どう沈んだかのほうが大事。何ページ進んだかより、その本の文章が頭の中でどれだけ変な居座り方をしたかのほうが気になる。
だから、数字で整列させられた読書を見ると、少し息苦しい。
本棚の中に点呼が始まった感じがするのだ。おまえは今年何冊目か。ちゃんと成果になっているか。読書感想文の妖精がまだ生き残っていて、いちいち出欠を取ってくる。やめてほしい。こちらはもっとぬるく、だらしなく、しかし深刻に読んでいるのだ。
それでも冊数に負い目を感じるのは、かなり理不尽である
ややこしいのは、そういう冊数マウント的なものに違和感を覚えながら、同時に自分が300冊も読めていないことに、うっすら負い目を感じてしまうことだ。
そんな必要はまったくない。ないのに、ある。
人間は、どうでもいいと頭で分かっている数字に、なぜか心だけ傷つけられることがある。体重や年収やフォロワー数などが、その代表だろう。冊数もたぶんその一種だ。知らなければ平和なのに、見た瞬間に、なんとなく自分が負けた気になる。何に負けたのかは不明。不明なのに敗北感だけは一人前にある。
私はべつに冊数で競う必要などないと思っている側だ。
なのに、競技にエントリーしていない人間が、勝手にスタジアムの外で膝をついているような状態に近い。
「私はレースには参加しません」と言いながら、遠くから号砲を聞いて少し焦っている。どの立場なのか。もう少し態度を統一したほうがいい。
けれど、自意識というものは、そう簡単に整頓されない。
読書好きというのは、静かな趣味であるぶん、自分の中だけで勝手にこじれやすいのかもしれない。誰も責めていないのに、なぜか責められている気がする。誰も数えていないのに、どこかで帳簿がつけられている気がする。
たぶん本を読む人間は、本を読みすぎているせいで、見えない文脈まで勝手に読んでしまうのかもしれない。
そこには何も書いていないのに、「おまえはまだ足りない」と書いてある気がする。被害妄想の読解力だけがやけに高い。もう少し別のところに使えればよかったのだが、たいていこういうところに使われてしまう。
積読が減ると不安になる人間は、たぶん本棚を食糧庫だと思っている
最近、そろそろ読む本がなくなってきた。
積読本が減ってくると、不安になる。
これも冷静に考えると、だいぶおかしい。
世の中には本が無限にある。本屋も図書館も通販もある。明日から地球上の本が突然なくなるわけではない。にもかかわらず自宅の未読在庫が減ってくると、胸のあたりにうっすら風が吹く。ああ、何かが足りない、という感じがする。
これはおそらく、本そのものが不足している不安ではない。
「次に自分を避難させる場所が減っている」ことへの不安なのかもしれない。
積読は、怠慢の証拠のように言われることがある。買ったのに読んでいない。なんとなく後ろめたい。
しかし私にとって積読は少し違う。あれは怠慢ではなく、可能性の山だ。まだ読める、まだ潜れる、まだ別の頭になれる、という予備の入口が並んでいる状態。
未読の本が数冊あるだけで、生活の景色は少しやわらぐ。
今日はうまくいかなくても、帰ればまだ開いていない本がある。そこにはまだ知らない文章がある。今の自分とは別の考え方や、別の時代や、別の失敗の仕方が待っている。そう思うだけで、現実の手触りが少し鈍くなる。鈍くなるくらいが、ちょうどいい日もあるのだ。
だから積読が減ると、不安になる。
それは本を読めていない罪ではなく、避難壕の備蓄が減っている感覚に近いのだと思う。
本棚の前で私はたぶん、読者というより小心者のリスなのだ。どんぐりの代わりに文庫本をため込んで、冬でもないのに落ち着こうとしている。
そして、そのへんに多少の病理があることは認めつつ、今のところは上手に飼っていると思っている。
