散歩中の犬と目が合うと、なぜか心が通じた気がする

犬が好きなのは、昔いっしょに暮らしていたからだ

犬が好きだ。
これはもう、わりと静かな事実である。熱弁するほどでもなく、しかし撤回の余地もなく、犬が好きだ。

かつて犬を飼っていたことがあるからだと思う。
犬と暮らしていた時期があると、こちらの人生のどこかに、犬用のへこみのようなものができる。卵パックのくぼみみたいなものだ。そこに犬という存在が、ぴたりと収まっていた記憶が残るのである。べつに卵と犬は似ていないが、収まりの話としては近いものがある。

一緒に暮らしていた犬のことを思い出すと、まず顔より先に、気配を思い出す。
歩く音、寝ているのに耳だけは起きている感じ、こちらのちょっとした動きに「なにか食べますか」と期待してくる目。そういう、犬の生活感のようなものが先に戻ってくる。犬はただいるだけで、部屋の空気を犬寄りにしていた。
あれはかなり特殊な能力である。加湿器とも違うし、観葉植物とも違う。犬は犬として、場を犬化させる。

その記憶があるせいか、街で犬を見かけると、どうしても他人事では済まなくなる。
他人の犬なのに、心の中で勝手に「おっ」となる。よくない意味での親戚感があるのだ。向こうはもちろん知らない。こちらだけが勝手に、犬界との細いパイプをまだ握っているつもりでいる。

散歩中の犬には、つい視線で話しかけてしまう

街でお散歩中の犬とすれ違うことがある。
そのとき私は、かなりの確率で犬を見る。見てしまう。そして、できるだけ怪しくならない範囲で、視線だけで愛想を振りまく。

「こんにちは」
「犬ですね」
「たいへんかわいらしいです」
そういうことを、目だけで送る。無言のくせに情報量が多い。犬からすると重いかもしれない。

もちろん、人間相手にこれをやるのは危険だ。
知らない人とすれ違いながら、目だけで好意を濃く伝えるのは、社会が採用している方式ではない。だが犬にはやってしまう。犬なら許される気がするからだ。この“犬なら許される”という雑な特例運用が、私の中にはある。法ではないが、かなり強い内規だ。

犬に向ける視線には、少しだけ下心がある。
なにかしら反応してほしいのだ。耳でもいい。しっぽでもいい。顔をこちらに向けるだけでもいい。
「あ、そっち、犬好きですね」
という了解がほしいのである。

ずいぶん勝手な話だ。
しかし犬好きという生きものは、たいていこの勝手さを持っている。犬との交流に、やや多めの意味を見積もる癖があるのだ。株なら危ない。感情相場が荒すぎる。

犬にシカトされる日もあるし、妙に通じ合う日もある

とはいえ、犬はいつでもこちらの期待に応えてくれるわけではない。
まったく見向きもされないことも、珍しくない。

きれいにシカトされる。
あまりにも自然に無視されるので、こちらの存在が一瞬、街路樹かなにかに格下げされた気がする。犬から見た私は、歩道の端の白線くらいの意味しかないのかもしれない。そう思うと少しだけへこむ。犬にへこまされる中年、あるいは大人。あまり説明しづらい状態である。

でも、たまにいるのだ。
こちらに気づいてくれる犬が。

「おっ」という感じで顔を向け、足を止め、目を合わせてくる犬がいる。
しっぽの角度が変わったり、少し近寄ろうとしたり、なんならかなり積極的に「あなた、犬の感じがしますね」という態度を見せてくる犬もいる。
あの瞬間、確実に何かがある。
少なくともこちらは、かなりある。

種を超えたエモい心の交流、などと書くと少し気取っているが、実際そうとしか言いようのない瞬間がある。
人間同士の会話ほど制度化されておらず、にもかかわらず妙に通じた感じがある。
言葉がないぶん、むしろ「通じた気がする」の純度が高い。
もちろん、それは気のせいかもしれない。
しかし気のせいにも、栄養はある。

犬の目というのは不思議だ。
こちらの人間としての肩書きや、いま抱えている面倒や、昼に送った少し感じの悪いメールなどを全部すっ飛ばして、ただ「いま、ここにいる何か」として見てくる感じがある。
その感じに、救われることがある。
犬はべつに救おうとしていないだろうが、結果として救ってくる。無自覚な救世主だ。かなり毛があるが。

だがだいたい最後は、飼い主に連れていかれる

しかし、そうした交流はたいてい長続きしない。
なぜなら犬は散歩中であり、犬の行動にはだいたい飼い主が関与しているからだ。当たり前だ。社会はそうなっている。

犬がこちらに興味を示し、私も内心で「やはり通じ合っている」と静かに盛り上がった、その直後である。
リードがぴんと張り、犬は飼い主によってすっと連れていかれる。

このときの、犬のちょっと寂しそうな顔。
あれが私はたいへん好きで、そして少しつらい。

もちろん、本当に寂しいのかは知るよしもない。
ただ単に「そっち行くの、いまですか?」というだけかもしれないし、「なんか気になるにおいがあったのに」という話かもしれない。
しかしこちらには、もっと都合のいい翻訳が発生する。

「わたしが犬であり、あなたが犬好きであることは理解しているんです」
「ただ、飼い主さまには逆らえないんです」
「ゴメンナサイわん」

そういう字幕が、勝手に脳内に出る。
犬はそんなこと言っていない。
言っていないのだが、あまりにもそれっぽい顔をすることがある。
犬はときどき、人間の妄想に対して責任を持てないくらい、よくできた表情をする。あれはずるい。

そして私は、去っていく犬の背中を見ながら、ちょっとだけ取り残される。
ほんの数秒の交流だったのに、駅のホームで見送ったみたいな気分になる。
かなり大げさである。
でも、心というのは暇さえあれば大げさになる。とくに犬が相手だと、その傾向が強い。

あの一瞬の交流は、こちらの思い込みだけではないと信じたい

結局のところ、私は犬の感情を勝手に読み取っている。
読み取りすぎている、と言ってもいいかもしれない。
犬の一瞥に意味を見出し、しっぽのひと振りを好意として受け取り、連れていかれるときの目に別れのニュアンスまで感じてしまう。
だいぶ厚めの解釈である。映画評論家なら嫌がられるタイプの読みだ。

それでも、そう信じたいのだ。
犬も、同じように少しは感じていてくれたのだと。

「この人、犬が好きなんだな」
「ちょっと寄ってみたいな」
「でも、行かなきゃな」
そんなふうに、犬の側にもほんのわずかでも感情の波が立っていたらいいと思う。

たぶん人は、自分が一方的に好きなだけでは少し心細いのだろう。
相手が犬であっても、できれば好意は往復していてほしい。
片道だけの感情より、少しでも反射があるほうが、世界はやわらかく感じられる。

街で犬とすれ違うたび、私はたぶん確認しているのだと思う。
この世にはまだ、説明のいらない好意があるのかどうかを。
名刺交換も根回しも実績もいらない、ただ「なんか、いいですね」で成立する関係が、まだ残っているのかどうかを。

犬は、その問いに毎回きちんと答えてくれるわけではない。
見もしない犬もいるし、急いでいる犬もいるし、こちらを警戒する犬もいる。
それでいいのだと思う。
むしろ全員に好かれたら、それはそれで怖い。犬界に何か重大な誤解が広がっている可能性がある。

だからこそ、ごくたまに生まれる、あの一瞬が効くのだ。
目が合って、心が少しだけ動いて、でもすぐに離れてしまう。
あれは小さい出来事だが、小さいわりに後を引く。ポケットに入れた小石みたいに、あとから存在感が出てくる。

犬が好きだ。
昔、犬を飼っていたからかもしれない。
いまはもう一緒に暮らしていなくても、街角で犬と目が合うたび、あのへこみはまだ自分の中に残っているのだとわかる。
そして私は今日も、散歩中の犬に対して、視線だけで静かに愛想を振りまく。

だいたいシカトされる。
でも、それでいい。
たまに通じる、その一回のために、人はわりと何度でも無視されるものだ。
少なくとも私はそうである。相手が犬なら、なおさらだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です