イベントでバンド演奏をしてきました、の奥にある話

野外イベントのステージで、バンド演奏をしてきました。

こう書くと、それだけのことです。
あまりにもそれだけすぎて、「イベントでバンド演奏してきました」とだけ書くのは、なんというか、情報として乾きすぎています。乾パンのようです。しかも水分の少ない乾パンです。

実際には、もう少し中身がありました。
いや、「ありました」というより、私の中で勝手に騒いでいるものがありました。

今回ご一緒したメンバーは、私はぼんやり「アマチュアバンドの延長線上の人たちかな」と思っていたのですが、よく聞けば、ほとんどがプロの方たちでした。
そのこと自体にも少し驚いたのですが、それ以上に驚いたのは、演奏の進み方でした。

とても楽しかったのです。
そしてその楽しさには、かなりはっきりした理由がありました。

譜面通りにやるための練習が、ほとんど要らなかった

アマチュアバンドの練習では、多くの時間が「まず譜面通りに演奏する」ことに使われます。

これは別に悪いことではありません。
むしろ当然です。人間は放っておくと譜面通りにできません。私は今でも放っておくと怪しいです。人類全体がそうです、とまで言うと話が大きいですが、少なくとも私はそうです。

けれど今回の現場では、その工程が最初のリハーサルの時点で、ほとんど終わっていました。
正確に言うと、「そこを詰めるために時間を大量消費する必要がない」という状態でした。

つまり、時間の使い方が違ったのです。
譜面通りにやるために神経をすり減らすのではなく、その正しい演奏に対して、何を上乗せするかを考えられる。
音の置き方をどうするか。
どこで少し間を持たせるか。
どうすれば、ただ正しいだけではないものになるか。

そこに時間が使えるというのは、かなり幸福なことでした。

正しく弾いた先に、まだ“遊ぶ”余地がある

私が今回いちばんうれしかったのは、たぶんここです。
「どう遊ぶか」を考えられたことでした。

遊ぶ、というと、ずいぶん気楽な言葉に聞こえます。公園の砂場の横に落ちていそうです。

でも演奏における「遊ぶ」は、かなり高度な話です。
土台が崩れている人には与えられない、妙に贅沢な仕事です。

まず正しくできること。
そのうえで、正しさの中にどんな表情を混ぜるか。
ここで初めて「遊び」が発生します。

私は今回、その時間がとても好きでした。
ただ弾けた、ではなく、そこに何を持ち込むかを考えられた。
演奏が、作業の延長ではなく、少し創作に近いものになった感じがありました。

これは、かなり快いです。
快い、という言葉では少し上品すぎるかもしれません。
もっとこう、静かに依存性があります。
体に悪いがうまいもののように、よくない顔でこちらを見てきます。

それを気持ちよく感じてしまう自分の、少し嫌なところ

ただ、この快感には少し困るところもあります。

私は楽器を教える仕事もしていて、一応立場としては、末席の極みながらプロの端くれではあります。
とはいえ実際には、アマチュアの方たちと一緒に演奏する機会も多いです。
そしてその場には、その場の良さがあります。
熱意がありますし、時間をかけて少しずつ形になっていく感じにも、ちゃんと尊さがあります。

それなのに、今回のような「最初から再現はほぼできているので、その先の遊びに行ける」という現場を味わってしまうと、心のどこかで、もう戻れない舌になりそうな気がするのです。

これはかなり危険です。
傲岸ですし、感じも悪いです。
頭の中に、いやな小貴族みたいな自分が生まれます。
「再現にこんなに時間を使うのかね」などと、銀のフォークでも持ちながら言いそうです。最低です。

もちろん、そんなふうに単純比較できる話ではありません。
そもそも今回のバンドは、単発のイベントで、リハーサルも一回だけという、かなり軽やかな条件でした。
このメンバーで継続して、集客して、お金を生んで、責任を持って活動する、となれば、話はまるで別です。
そこにはアマチュアバンドと比べものにならない種類の大変さがあるはずです。

だから私は、「やっぱりプロはいい、アマチュアはだめだ」みたいな乱暴な話をしたいわけではまったくありません。
ただ、今回、自分がどこに喜びを感じたのかを正直に言うなら、
“再現”の先にある“遊び”へすぐ行けたことが、ものすごくうれしかった
それだけは、たぶん本当です。

昔の私は「自由に遊べ」の意味がわからなかった

ここで少し、昔の話を思い出します。

かつて私は、師匠が運営されていたプロ集団の中に混ざって活動していました。
その頃の私は、まだアマチュアでした。
現場で揉まれて、揉まれて、もう少しで餅になるのではないかというくらい揉まれて、今に至っています。

当時の私は、とにかく必死でした。
やるべきことを落とさない。
間違えない。
流れを止めない。
そのことで頭の容量はほぼ埋まっていました。

だから、演出の指示で「ここは自由に遊んで」と言われたとき、本当に意味がわかりませんでした。
私は固まりました。
“遊ぶ”とは何か。
その正解は何か。
何をすれば怒られず、何をすれば褒められ、何をすれば「お、わかってるね」みたいな顔をされるのか。

たしか私は、かなり情けない感じで、
「遊ぶって、どういうのが正解ですか」
みたいなことを聞いた記憶があります。

いま思うと、なかなかすごい質問です。
自由の説明書を求めています。
その場に必要だったのは身軽さだったのに、私は一人だけ、見えない防具を何枚も着込んだまま立っていたのだと思います。

でも、あの頃の私には、本当にわからなかったのです。
遊ぶためには、まず余裕が要る。
余裕ができるには、再現できることが要る。
その順番が見えていなかったのだと思います。

あの頃の自分に、いま少しだけ見せびらかしたい

今回、私はほんの少しだけ、その「遊ぶ」の入口に立てた気がしました。

大げさに言うつもりはありません。
何かを極めた、などという話でもありません。
ただ、昔は意味すらわからなかったものに対して、いまは「ああ、これが楽しいのか」と感じられた。
それがうれしかったのです。
そして同時に、少しだけ自慢したくもなりました。
10年前の、固まっていた自分に向かってです。

どうだい、と。

あのときおまえが意味不明だと思っていた“遊ぶ”というやつを、いま私は、ほんの少し楽しめるところまで来ましたよ、と。

もちろん、その自慢はかなり小粒です。
胸を張るというより、物陰からそっと見せる感じです。
ほら、見て。見なくてもいいけど。いや、やっぱりちょっと見て。
その程度の、たいへん小心な見せびらかしです。

でも、人はそういうもので少し救われるのかもしれません。
昔わからなかったことが、いま少しわかる。
できなかったことが、少しできる。
その事実は、案外ちゃんと自分を支えます。

イベントでバンド演奏をしてきました。
本来なら、それだけの報告でもいいはずです。

けれど私にとって今回は、
「うまく弾けた日」だったというより、
「ようやく少し遊べた日」でした。

だから、たぶん楽しかったのだと思います。
そしてその楽しさを知ってしまったことを、少し警戒しながら、でもやはり、うれしく思っています。

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