「ルールだから」と彼は言った

自転車は車道を走る。ルールだからだ。国がそう言っている。

ちなみに、信号は守らない。停止線は超える。前後左右の安全確認はしない。夜のライトは気が向いたときだけ点ける。渋滞した車列の右側をすり抜ける。後ろから来た車が減速してもそれは車の都合。なぜならルールだから。国がそう言ったから。
あ、車が詰まってたら歩道走りまーす。

ルールが発動する場所

「ルールだから」が発動するのは、車道に出る瞬間だけだ。

同じ法律の同じあたりに、信号を守れとも、止まれと書いてある。暗くなったらライトを点けろとも書いてある。そこはなぜか受信できない。国の言うことを聞いているわけじゃない。国の言うことの中から、自分に都合のいいところだけを引用しているだけかもしれない。

そして渋滞したら歩道に上がる。その瞬間、「ルールだから」という前提そのものが撤回される。根拠は権威ではなく、気分の問題だからだ。国は都合のいいときだけ呼び出される召喚獣のように扱われている。
たぶん彼らが解決しようとしているのは危険ではなく、退屈なのではないかと思う。

マナーの話ではない

こういう話をすると、たいていマナーの問題として処理される。挨拶をしないとか、列に割り込むとか、そういう括りに入れられる。

違う。

マナー違反は、語弊を恐れずにざっくり言ってしまえば不快の話だ。誰かが少し嫌な思いをするからやめましょう。でもこれは物理の話だ。人間ひとりと鉄の塊が、そこそこの速度で、予告なく、想定していない方向から現れる。

交通ルールというのは、要するに予測可能性の共有ではないか。左を走る、止まる、曲がる前に合図する。全員が同じ文法を使っているから、互いに相手の次の一手を読める。読めるから避けられる。

彼らはその文法を使ってない。だから読めない。読めないものは避けられない。

つまり彼らはマナーの悪い人ではなく、確率的な障害物といえる。悪意はない。悪意がないから厄介。悪意には規則性があるけれど、気分に規則性はない。

ある自転車乗りの一日

彼の朝は逆走から始まる。目的地が右手にあるからだ。正面から来る車と最短距離で近づいていく走り方だが、本人の中では近道という言葉で処理されている。

昼、交差点を右に曲がる。端に寄ることも、いったん直進することもせず、中央から鋭角に切っていく。後ろから来た直進車が彼の背中を至近距離で見ることになるけれど、彼はそれを知らない。背中には目がついていないからだ。見えないものは存在しない。

青い自転車専用通行帯がある区間はちゃんとそこを走る。ここは走っていい場所だと国が決めている。問題はその先で、通行帯が路上駐車に塞がれたとき。彼は後ろを確認せず、ノールックで車道の中央側へ膨らむ。あるいは歩道に上がる。レーンが引いてある間だけ彼はルールを守れる。引いていない区間では、判断の基準が気分に戻る。

歩道に上がれば速度は落とさない。前を歩く人にはベルを鳴らす。ベルは、鳴らすと怒られ、付いていないと怒られる。彼はこの矛盾を、両方やることで突破している。

雨が降る。傘を差す。片手になる。信号待ちのついでにスマホを見て、そのまま見ながら発進する。イヤホンをしているので、後ろから来る音は聞こえない。聞こえないものは存在しない。

夕方、警報機が鳴り始めた踏切に突っ込む。一時停止などしない。渡り切れなかった場合に止まるのは、彼ではなく電車のほうだから安全だ。

夜。ライトは点けない。「自分は見えているから大丈夫」と彼は言う。ライトは自分が見るための道具ではなく、他人に見つけてもらうための道具のはずだが、その発想は最後まで出てこない。ブレーキの効きが悪いことは知っている。知っているけど、まだ止まれているので問題ない。事故ったこともない。だから安全だ。

彼が唯一守っていたもの

先日、信号待ちで横に並んだ自転車がいた。
ここまで書いてきたことを全部やりそうな男だった。というか、ほとんどやっていた。

でもひとつだけ、自発的に守っているものがあった。

ヘルメットだ。

そのヘルメットの後頭部に、白いカッティングシートで、目立つように大きく書いてあった。

Safty Drive

完全に後ろの車に向けた言葉だ。彼が一度も確認しなかった方向に向けて、安全運転を呼びかけている。

スペルのことは言うまい。

その頭は、点滅を終えた信号を躊躇なく横切っていった。
わたしはその後ろで、信号が変わるのを待っていた。

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