石になれなかった人は、太鼓に土下座するようになった

石になりましょう

暗黒舞踏の大野慶人さんのワークショップに参加したことがある。

「石になりましょう」

という課題が出た。

石。

道端に落ちている、あの石。

そして、石になるための触媒として、ティッシュペーパーを一枚渡された。

石とティッシュペーパー。

何をどうすればいいのか。

わたしは固まった。

石になれと言われたので固まった、というわけではない。何をしていいか分からなくて、本当に固まってしまったのだ。

周囲の参加者さんたちは、思い思いに何かを始めていた。ティッシュペーパーを使って何かを表現している人もいる。表情は真剣そのもの。おそらく皆さん、役者さんだったのではないかと思う。

わけもわからず時空に取り残されているのはわたしだけだった。完全な場違い野郎であり、どう贔屓目に見ても芸術点は0点。

帰りがけ、大野さんが「頑張ってね」と声をかけてくださった。

わたしの口から出てきたのは、謝罪の言葉だけだった。

石にもなれず、ティッシュペーパーも使えず、謝って帰った。

何をしに行ったのだろう。

何かって何ですか!

そもそも、なぜ暗黒舞踏のワークショップに参加したのか。

演劇における「解放」というものを学びたかったからだ。

和太鼓やタップで舞台に立たせていただく機会が増え、必要に迫られていた。

解放。

何となく意味は分かるような気がする。でも具体的に何をすればいいのか。どうすれば身につくのか。そもそも解放って何なのか。

純度100%の謎。

当時、師匠のチームのステージに出演させていただくことがあった。

舞台袖からステージに出てくる。

ただ歩いて出てくるのでは駄目なのだという。そこに「何か」を出さなければならない。

何か。

「ここは自由にやっていいところだから、何かやって」

何かって何ですか!?

必死に考える。何とか絞り出して、何かをやってみる。

「それは違う」

却下。

何かって何ですか!!

正解が分からない。何を求められているのかも分からない。そもそも何を基準に考えればいいのか分からない。

比喩表現ではなく、胃が崩壊するほど苦しんだ。

わたしのバックボーンはミュージシャンだ。

楽譜がある。リズムがある。音程がある。演奏技術がある。正確さを追求するための基準がある。

もちろん音楽にも自由な表現はあるし、即興演奏だってある。それでも、何を手がかりに考えればいいかは、音楽という共通言語によってある程度理解できる。

ところが演劇の世界では、突然その手がかりが消える。

「自由にやって」

自由に。

これほど恐ろしい言葉があるだろうか。

しかも自由にやったら「それは違う」と言われたりする。

自由とは何なのか。何かとは何なのか。

わたしの胃はもう限界だった。

石は動かない。だから何だ。

今なら、あのワークショップで自分が何もできなかった理由が分かる。

「石になりましょう」と言われて、動かずに固まる。

石は動かないものだから。

これは100人いたら100人が最初に思いつきそうな答えだ。

もちろん、動かない石を表現すること自体が悪いわけじゃない。

もしかしたら101人目が、ただそこにいるだけで観客の目を釘付けにするような石を表現するかもしれない。

そういう人が、チームのセンターを任されるのだと思う。

でも当時のわたしは違った。

石を表現しようとして動かなかったのではない。何も思いつかず、何もできなかっただけだ。

そこにいたのは石ではなく、何もできない人間でしかなかった。

では、ティッシュペーパーをヒラヒラさせながら踊ってみたらどうだろう。

「我は石なり!」

そう宣言して、踊る。

石が踊るわけないだろう、と言われるかもしれない。

でも、いいのだ。

表現なのだから。そこには意図もある。

なぜ石が踊るのか。なぜティッシュペーパーなのか。そこから何かが生まれるかもしれない。少なくとも、動かずに固まっているだけの人間より、何かを表現しようとしている。

当時のわたしには、この発想がなかった。

正解なんかない。

このことを理解するまでに、ずいぶん時間がかかった。

そして、正解がないからといって、何でも面白くなるわけではない。

面白いものもあれば、つまらないものもある。大成功もあれば、大惨事もある。

その違いが、少しずつ分かるようになってきた。

幾千のトラウマと引き換えに。

上手な人は、面白いのか

そんな経験を重ねてきたせいか、ミュージシャンの方と一緒にステージに立つと、少し物足りなさを感じることがある。

皆さん、上手なのだ。

正確に演奏する。きれいな音を出す。難しいフレーズを弾く。アンサンブルも整っている。

素晴らしい。

……でもそれ、何が面白いの?

という疑問が湧いてしまう。

誤解のないように書いておくけれど、上手な演奏を否定したいわけではない。わたしの中に生まれる疑問がどうかしてるのだ。技術は大切。わたし自身、演奏技術の向上には今でも真剣に取り組んでいる。

でも正確な演奏をすることだけが目的なら、MIDIとの違いは何だろう。Sunoで作った音源との違いは何だろう。

人間がわざわざ舞台に立って演奏するのだから、そこに人間がいる面白さが欲しい。

極論を言えば、上手な人なんか面白くない。語弊は盛大にある。

下手な人のほうが面白いことすらある。

下手でいいと言っているのではない。ここは何度でも強調しておきたい。

真面目に練習しているのに、やりたいことができない。必死に頑張っているのに空回りする。ほかのメンバーにイジられる。本番直前に突然無茶振りされて、盛大にテンパる。

面白いじゃないですか。

本人は大真面目。だからこそ面白い。上手ではないことを嘲る意図ではなく、「その人」が現れることに面白さを感じるのだ。

もちろん、上手な人にもこういう面白さはある。でも技術的に何でもソツなくこなせる人は、こうした事態に陥りにくい。

失敗してほしいわけではない。

上手にできるかどうかとは別に、その人が舞台にいることで何が起こるのか。

わたしは、そこに興味がある。

とりあえずギターを2本持とう

バンドのメンバーに、そんな話をしてみることもある。

「何かやろうよ」

当然、伝わらない。

かつてのわたしと同じだ。

何かって何?

そこで、もう少し具体的にしてみる。

「ここ、もう全員楽器を弾くのやめちゃおうよ」

「この曲、ギター2本持ってやろうよ」

「とりあえず、でっかい声で叫ぼうか」

誰もやってくれない。

当然だ。

何のためにギターを2本持つのか。そんなことをして何になるのか。意味が分からない。音楽的必然性は皆無だ。

わたしだって、昔ならそう思ったはずだ。

でもわたしが求めているのは、決められた演出を正確に再現することではない。

全員で同じ動きを練習して、タイミングを合わせて披露する。それはそれで一つの芸だけれど、わたしが欲しい「何か」とは少し違う。

ギターを2本持ってみた。

さて、どうしよう。

そこから何が起こるのか。

何も起こらないかもしれない。盛大にスベるかもしれない。思いもよらないことが起きるかもしれない。

その可能性に興味がある。

もっとも、こういう話はなかなか伝わらない。

だから、バンドの中では、基本的に一人で何かをすることにしている。

例えば、曲の途中で和太鼓を叩くために登場する場面。

普通なら舞台袖から出てきて、太鼓の前に立ち、演奏を始める。

わたしは、天に向かって大仰に一礼してみる。

あるいは、太鼓に向かって土下座してみる。

太鼓は神様なのか。

知らない。

盛り上がってきたら、太鼓を担いで客席に飛び込むこともある。

客席をステージにしてしまう。お客さんにバチを渡して、叩いてもらう。

さっきまで観客だった人が、突然演者になる。

何が起こるか分からない。

これが楽しい。

もちろん、バンドの演奏を邪魔するつもりはないし、ステージを独占するつもりもない。演奏そのものを崩壊させては本末転倒だ。

でもお客さまたちには、せっかく生身の人間が演奏している舞台を見に来てくださってるのだから、音楽だけでなく、何かを持ち帰ってもらいたいと思ってしまう。

「あの太鼓の人、何だったんだろう」

そんな記憶でも、残ってくれたら嬉しい。

役者さんたちが太鼓を叩く

いま現在、参加している和太鼓チームがある。

わたし以外、全員役者さんだ。

これがもう、とんでもない。

表現が炸裂する。

わたしの100万倍くらい炸裂する。同じ舞台に立っていると、圧倒される。

この人たちは、何を考えているのだろう。いや、考えるより先に身体が動いているのだろうか。

誰かが何かを仕掛ける。それを誰かが拾う。さらに別の何かが生まれる。

これは面白い。

これはスベるかもしれない。

これは相当なギャンブルだな。

一ボケのために、そこまでやるか!

見ていてワクワクしかない。

でも。これはコントチームではない。和太鼓チームだ。

演奏は最低限、きちんと成立させる。それが絶対に譲れない不文律だ。

太鼓の演奏が成立しなければ、和太鼓チームである意味がなくなってしまう。

だから和太鼓という文脈を大切にする。その制約の中で、どこまで表現を広げられるか。どこまで遊べるか。どこまで昇華させられるか。

そこが面白い。

演奏面の不文律は、わたしが必ず死守します。だから皆さんの表現を拝見させてください。必要があれば、わたしも「何か」には、ある程度なら対応できますし。

そんな立ち位置で参加させていただいてる。

だからこそ、楽しめている面も大きいのだと思う。

演奏という自分の専門領域がある。そのうえで、自分よりはるかに豊かな表現をする人たちと舞台に立てる。

こんなに面白い環境は、なかなかない。

そして思う。

この人たちなら、大野慶人さんの「石になりましょう」という課題に、いったい何をするだろう。

きっとティッシュペーパーを絶妙に使いこなすのだろう。

想像もつかない石を見せてくれるに違いない。

ティッシュペーパーは、まだ分からない

かつてのわたしは、正解を探していた。

舞台に出るときは、どう歩けば正解なのか。自由にやれと言われたら、何をすれば正解なのか。石になるには、どうすれば正解なのか。

正解がない世界で、必死に正解を探していた。

そりゃ胃も崩壊する。

今は少し違う。

面白そうなことを思いついたら、やってみる。

スベるかもしれない。

失敗するかもしれない。

でも、そこから何かが生まれるかもしれない。

何も思いつかなかったら、何も思いつかないなりに、何かを探す。

そして、自分よりはるかに面白い人たちを見て、まだまだ未熟だなあと感じる。

以前なら恐怖でしかなかった世界が、今は楽しくて仕方がない。

随分と遠くまで来たような気がする。

大野慶人さんのワークショップ、あれから何年経っただろう。

あの日、わたしは石になれなかった。

今なら石になれなかった理由は分かる。

太鼓に向かって土下座することもできるようになった。

客席に飛び込んで、知らない人にバチを渡すこともできるようになった。

でも。

ティッシュペーパーをどう使えばいいのか。

それは、いまだによく分からない。

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