それはGフォーム、鳴っているのはB♭

カポ3でGです

ギターの人から、「ここ、Gです」と言われた。見ると、カポが3フレットについている。左手はGの形をしている。

なので、鳴っているのはB♭だ。

わたしは一応、「実音でG?」と聞く。すると、「カポ3でGです」と返ってくる。

知っている。カポ3なのは見えているし、Gの形を押さえているのも見えている。わたしが聞きたいのは、そこじゃない。

こういうときわたしは少し弱気になる。もしかするとギター界では、これをGと呼ぶことで話が完全に成立しているのかもしれない。わたしだけが急に役所から来た人みたいに、「正式名称でお願いします」と言っている可能性がある。窓口番号の札でも持ったほうがいいのだろうか。

だとしても、鳴っているのはB♭だ。

それはGフォームです

別にカポを使うことには何の文句もない。ローコードで弾きたいこともあるだろうし、開放弦の響きが欲しいこともあるだろう。歌いやすいキーにしたいこともある。好きに使えばいい。

ただ、カポ3でGの形を押さえているなら、それはGフォームなだけであって、鳴っているコードはB♭だ。ここは分けてほしい。

ギターだけで演奏しているなら、たぶん困らない。全員が同じ場所にカポをつけて、「G、C、Dで」と言えば済む。その村では、それで通貨が流通している。わたしもわざわざ中央銀行を建てようとは思わない。

でも、そこにベースとか鍵盤とかが入る。すると急に事情が変わる。「Gです」と言われたベースは、普通にGを弾く。

こちらにはカポがない。つける場所もない。なくはないが、ベースの3フレットあたりに小さな洗濯ばさみをつけてみても、おそらく事態は改善しない。むしろ別の心配をされる。

なぜこちらが聞き取り調査を

だから確認する。「それ実音?」「カポ何フレット?」「じゃあB♭?」

このやり取り自体は短い。数秒で終わる。だから、この程度のことで腹を立てるのもどうなのかとは思う。

思うのだけれど、わたしはこの確認をするたびに、何ともいえない気持ちになる。なぜわたしは、コードを一つ知るために、ギタリストの演奏環境を調査しているのだろう。

欲しかった情報は「B♭」の一語だ。でも実際には、カポの有無を確認し、カポの位置を確認し、押さえているフォームを確認し、そこから実音へ変換する。

これは聞き取り調査だ。わたしはベースを持って立っているだけなのに、いつの間にか現場検証に参加している。

こちらが勝手にクイズ大会へ参加させられている感じもある。
問題文は「Gです」。
ヒントは「カポ3」。
正解はB♭。

かなり意地が悪い。しかも出題者はクイズを出しているつもりがない。

Gと言われてもGを信用できない

さらに困るのは、ギターの人が「G」と言ったとき、本当にGの場合があるということ。これで話が少しややこしくなる。

「Gです」と言われる。わたしはすぐにはGを弾かない。まずギターを見る。カポを見る。左手を見る。

この人の言うGは、今日のGだろうか。そんな疑念が生まれる。

Gに罪はない。昔からGはGだった。少なくともわたしの知る限り、G側から何か説明を変更したという発表はない。

それなのにわたしは、人の口から「G」という言葉が出るたびに、一度保留するようになった。ひどい話だ。

コードネームというものは、本来もう少し信用されていい。「水です」と言われて、水かどうかを毎回コップ越しに確認する生活は疲れる。

ローコードで弾きたい事情を、全員の仕事にしないでくれ

なので、お願いは単純だ。カポは使っていい。Gフォームで弾いてもいい。むしろ好きなだけ弾いてほしい。

でも他の楽器と話すときは、鳴っているコードの名前で言ってほしい。カポ3でGフォームなら、B♭。それで終わる。

わたしはB♭を弾く。あなたはGの形を押さえる。誰も困らない。「実音?」「フォーム?」「カポ何フレット?」という会話も発生しない。

ローコードで弾きたい事情を、全員の仕事にしないでほしい。

たぶんわたしは、カポそのものに腹を立てているわけではない。カポは何も悪くない。あれは黙って弦を押さえているだけだ。むしろこの件でいちばん黙って仕事をしている。

ただ次に、「カポ3でGです」と言われたら、わたしはまた一度ギターを見ると思う。カポを見て、左手を見て、それから少し考える。

もう癖になっている。

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