泣きそうなおじさんはなぜ気になるのか。他人の表情に物語を読む私たち

道ですれ違ったおじさんが、今にも泣きそうな顔をしていた。

正確に言うと、泣いていたわけではない。
目に涙がたまっていたのかも不明だし、鼻をすすっていた記憶もない。
ただ、こちらの脳内にだけ「この人は泣きそう」というテロップが静かに表示されたのだ。勝手に。親切でも何でもない字幕機能。

そういうことはたまにある。
知らない人の表情に、こちらが過剰な意味を読んでしまう。
あの人は怒っている、疲れている、絶望している、あるいはさっきコンビニでプリンを落としたのではないか、と。
表情というのは、顔に貼られた公式声明ではないのに、つい解釈したくなる。
人は顔を見ると、すぐに国語の読解問題を始めてしまう生き物なのかもしれない。
しかもだいたい誤読だ。ひどいときは設問自体が存在しない。

そのおじさんも、たぶん普通に歩いていただけなのだと思う。
ただ普通に、どこかへ向かっていた。
それだけなのに、こちらのなかではもう何本か短編映画が始まっていた。
脳というのは落ち着きがない。静かにしていてほしいと思う。

あのおじさんに何があったのだろう、と考えてしまった。

悔し泣きなのかもしれない。
たとえば会議で、若い部下にやんわり正論を言われ、しかもその正論が完全に正しい場合。
怒ることもできず、反論もできず、しかし心のなかでは小さな武士が膝をついている。
そういう種類の泣きはあると思う。
大人になると、声を上げて泣くかわりに、顔の筋肉だけが「たいへん遺憾です」という官僚的な崩れ方をすることがある。

あるいは、悲しいことがあったのかもしれない。
誰かとの別れ。
仕事の失敗。
病院の帰り。
あるいは、買ったばかりの総菜のフタがきれいに閉まっていなかったとか、そういう小さすぎる事故が、最後の一本だった可能性もある。
人は案外、壮大な悲劇ではなく、レジ袋の持ち手が片方だけ異様に細く食い込んだときに限界へ近づいたりする。
尊厳というものは、思ったより安い場所に置いてある。

いや、逆に感動の泣きかもしれない。
たまたまイヤホンから流れてきた曲が、若い頃に誰かと聴いたものだった。
駅前の桜が、あまりにちゃんと咲いていた。
ドラッグストアの店員が、ポイントカードの有無を聞く声に、必要以上のやさしさを混ぜてきた。
そういうことで人は、急に内側から崩れることがある。
感動というのは、立派なホールで起きるとは限らず、むしろ乾電池売り場の前などで発生する。油断ならない。

そしてもちろん、単にまぶしかっただけかもしれない。
花粉かもしれない。
コンタクトの調子が悪かっただけかもしれない。
現実はたいてい、想像より地味だ。
それなのに想像は、地味であることを許さない。勝手に盛る。

それでも私がこんなふうにあれこれ考えてしまったのは、たぶん「おじさん」という存在に、社会が妙な役割を押しつけているからだ。

おじさんは、すましていなければならない。
取り乱してはならない。
あまり傷ついて見えてはいけない。
多少の理不尽は飲み込み、多少の不調は気合で処理し、顔面には「別に」という表示を出して歩いていなければならない。
そういう空気が、まだかなり残っている。

なんというか、おじさんには感情があってはいけないわけではないのだが、感情の出し方に妙な制限があるのだ。
怒ると面倒、泣くと重い、喜ぶと無邪気すぎる。
では何をしていればいいのかというと、うっすら疲れた顔で無難にうなずいているのが最適解みたいになっている。
生き方としてだいぶ窮屈である。
人間というより、使い込まれた事務機器に近い扱いだ。

だからこそ、泣きそうなおじさんを見たとき、こちらは少しうろたえるのだと思う。
あっ、規定外の表情だ、という感じで。
社会の見えないマニュアルから、一行はみ出した顔なのだ。
本来なら、誰だって泣きそうな顔ぐらいする。
朝から靴下のかかとがずれているだけでも、人はわりと消耗する。
なのに、おじさんだけは、常に「経年劣化しつつも安定稼働中」であることを求められている。
無茶であると言っていい。世の中、家電にだってもう少し配慮をしている。

とはいえ、たぶん本当に何もなかったのだと思う。
そこは認めたほうがいい。
私の見たその表情は、ただの無表情に近いもので、たまたま顔の部品の配置がそう見えただけかもしれない。
人の顔は、たまにこちらを混乱させる。
真顔がしみじみして見える人もいれば、考え事をしているだけなのに失恋直後みたいになる人もいる。
顔というのは、持ち主の意図とは別のところで勝手に物語を発する。

しかし、何もなかったと片づけてしまうのも、少し乱暴な気がする。
なぜなら、人にはたいてい、何かしらあるからだ。
大事件ではなくても、小さい引っかかりや、言葉にならない疲れや、説明するほどでもないし説明しても伝わらない種類のむなしさを、ポケットの小銭みたいにじゃらじゃら持って歩いている。

おじさんだってそうだろう。
今日、何かがあったかもしれないし、ずっと前から何かが続いているのかもしれない。
あるいは別に深刻なことではなく、昼に食べたカレーうどんの汁がシャツの内側に一滴だけ入り込み、その不快感がいまだ去らないのかもしれない。
そういうのも立派な人生だ。
人生は、もっと劇的であるべきだと思われがちだが、実際には「なんかちょっとイヤ」が長く続く競技でもある。

結局のところ、そのおじさんに何があったのかはわからない。
わからないまま、たぶん今後もわからないだろう。
それなのに、あの一瞬の表情だけが、妙に頭に残っている。

たぶん私は、おじさんの顔を見たのではなく、その顔に貼りついた社会の圧力みたいなものを見てしまったのだ。
泣くな、弱るな、立ち止まるな、気まずくなるから感情をこぼすな、という無言の指示。
そして、それをうまく守れないかもしれない人の気配。
あるいは、私自身もまた、すました顔をして歩きながら、内心ではいろいろかけめぐらせている側の人間だからかもしれない。

人は、知らない誰かの表情に、自分の不安を映す。
泣きそうなおじさんを見て勝手に動揺したのは、あのおじさんの問題というより、こちらの問題だったのだろう。
そう考えると少し恥ずかしい。
勝手に読んで、勝手に心配して、勝手に社会まで持ち出している。
かなり忙しい。向こうはただ歩いていただけなのに。

でも、そうやって他人の顔に引っかかってしまうのも、悪いことばかりではない気がする。
みんな案外ぎりぎりで、みんな案外平気な顔がうまい。
そのことを、ときどき思い出すきっかけにはなるからだ。

すました顔で歩いている人のなかには、本当にすましている人もいるだろう。
泣きそうな人もいるだろう。
そして、その両方がほとんど見分けのつかない顔をしているのが、人間の少し厄介で、少しおかしいところだ。

町ですれ違うおじさんは、だいたい何も語らない。
語らないまま、角を曲がって消えていく。
その背中に勝手な物語を載せるのは、たぶんこちらの癖なのだ。
ただ、ときどき思う。
ああいう顔をした人が、どこかで少しでも休めていたらいい。
花粉でも、失敗でも、人生でも、なんでもいいので、とりあえず座れる場所があればいい。
それくらいのことを考えるのは、過剰な誤読としても、そう悪くない気がする。

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