ヨガの精神とリズムの基礎練習

森羅万象と口元

和太鼓やドラムの基礎練習を長く続けていると、ときどき妙なところへ入る。

同じリズムを延々と繰り返す。

右、左、右、左。

メトロノームが「ピッ、ピッ」と鳴り続ける。この「ピッ」は、最初のうちはただの電子音だ。三十分も経つと、何か言いたいことがあるのに黙っている人のように聞こえてくる。

バチやスティックが跳ね返ってくる感触が、やけに鮮明になる。

音のズレも、リバウンドの具合も、自分の手首がどう動いているかも、そのくらいは普段から分かっている。分かっているつもりで練習している。
でも続けているうちに、解像度がだんだんおかしくなってくる。普段なら絶対に気づかない、髪の毛一本ぶんくらいの変化まで見えてくる。髪の毛一本ぶんがどのくらいなのかは、測ったことがないので知らない。

そのうち、今なら森羅万象を司れるのではないか、と思いはじめる。

もちろん司れない。

でもその瞬間のわたしはわりと本気でそう感じている。

そのかわり、それ以外のことがどんどん薄くなっていく。
何分叩いているのか分からない。
暑いのか寒いのかも分からない。
考え事をしなくなる。
身体があるのかどうかも、だんだん怪しくなってくる。

そして練習が終わって我に返ると、口の端からよだれがだらーっと垂れている。

森羅万象を司っていたはずの人間が、口元ひとつ司れていない。

八つあるうちの三番目

最近、ヨガについてあらためてじっくり考える機会があった。

ヨガというと、身体を伸ばしたり、難しそうなポーズを取ったりするもの、というフィットネスの印象が強い。
けれど古典的なヨガでは、身体のポーズは全体のごく一部分にすぎない。

『ヨーガ・スートラ』には「八支則」という、実践を八つの段階に分けたものが出てくる。

ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナーヤーマ、プラティヤーハーラ、ダーラナー、ディヤーナ、サマーディ。

こうして並べると、呪文か、行ったことのない国の路線図みたいだ。でも、そういうものがある。

いわゆるポーズ、アーサナはその三番目。
三番目というのは絶妙な位置で、表彰台には乗れるけれど、あまり覚えてもらえない。いや、三位はわりと覚えてもらえるか。覚えてもらえないのは四位だ。

その先には呼吸があり、感覚との付き合い方があり、集中があり、瞑想がある。

『ヨーガ・スートラ』の冒頭で、ヨーガはこう定義されている。

「ヨーガとは、心の作用の止滅である」

心が止まる、ではない。心の「作用」が止滅する。
この「作用」が挟まっているかどうかで、話はずいぶん変わる。

次から次へと浮かんでくる思考や感情や反応に、引っぱられ続けている状態。そこから少しずつ離れていく。
古典ヨガはそっちを向いている。

足の裏でもいい

ヨガを指導していて、最近よく考えていたのが「意識のアンカー」のことだった。

楽な姿勢で座る。
無理に深呼吸はしなくていい。
自分が呼吸していることに、少しだけ注意を向ける。

お腹がわずかに動く。
肋骨が広がる。
背中が椅子に触れている。
足の裏が床に触れている。

そういう感覚の中から、無理なく注意を置いていられる場所を探す。

呼吸が楽なら呼吸でいい。
呼吸に意識を向けるのがつらいなら、足の裏でいい。
背中でもいい。
周りの音でもいい。

戻ってこられる場所をひとつ作る。
しばらく、そこに留まってみる。
注意がそれたら、また戻る。

そういうことを言いながら、ふと思った。

あ、これ、昔からやっている。

小うるさい指導員が帰るまで

和太鼓やドラムの基礎練習も、よく考えると同じ構造をしている。

一定の拍がある。
スティックの反発がある。
一打ごとの音がある。
手の軌道がある。

そこに意識を置く。
ずれたら戻す。
もう一度叩く。
また戻す。

それを何百回、何千回と繰り返す。何回なのかは数えていない。数えはじめると、数える係が別に必要になる。

最初のうちは、頭の中に言葉がある。

「右手が少し遅れた」
「左の音が弱い」
「テンポが走った」
「今のはよかった」
「いや、よかったと思った瞬間に崩れた」

わたしの内側には、小うるさい指導員がひとり住んでいる。
頼んだ覚えはない。首から笛を下げているけれど、吹いているところは見たことがない。口で言う。

ところが長く続けていると、この指導員がだんだん黙っていく。
黙るというより、気がつくと帰っている。挨拶はない。

あとには、ただ音がある。
ただリズムがある。
ただスティックが跳ね返ってくる。

時間も、雑念も、自分がどう見えているかという意識も、そのあたりで一緒に薄くなる。

一般にはこういう状態を「ゾーン」と呼ぶのだと思う。

似ているところと、似ていないところ

ゾーンと、ヨガのいう「心の作用の止滅」が同じものだと言いたいわけではない。
むしろ違うところが大きい。

ゾーンに入ったわたしには強烈な万能感がある。

「今なら全部できる」
「このリズムを完全に支配している」

ヨガが最終的に向かおうとしているのは、この「自分が支配している」という感覚すら静まっていく方向なのだと思う。
支配している、と思っている時点で、作用はたぶん盛大に作用している。

身体の感覚が消えていくこと自体も、ヨガの目的ではない。

だから同じものではない。

でも途中で起きていることは、かなり似ている。

散らばっていた意識が、ひとつの対象に集まっていく。
それ以外のものが、少しずつ薄くなっていく。

呼吸に戻る。
一打に戻る。
足の裏に戻る。
クリックに戻る。
それたら、また戻る。

その繰り返しの先で、意識の状態そのものが変わっていく。

点と点

今回おもしろかったのは、ヨガについて新しいことを知った、ということではなかった。

「ああ、この感覚なら知っている」

と思えたことのほうだった。

わたしはずっと前から、リズムを使って意識を一点に集めることをやっていた。
それをヨガだとは思っていなかった。ただの基礎練習だと思っていた。いや、今でも基礎練習だとは思っているけれど。

呼吸に意識を向けることと、一打に意識を向けること。
床との接触に戻ることと、スティックの反発に戻ること。

やっていることは違う。
向かっている場所も、たぶん同じではない。

それでも、散らばった意識がひとつの場所へ集まっていくあの感じ、ずっと前から知っていたらしい。

新しい世界が開いたというより、それまで別々のところに置いてあった点と点が、あとから一本の線でつながった。そんな感じがしている。

森羅万象を司る境地に達した人間が、同時によだれを垂らしていることについて、『ヨーガ・スートラ』には特に記述がない。
八つの段階のどこにも入っていない。入れるとしたら、たぶん三番目のあたりがいいと思う。

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