記憶の空白。消えた建物とわたしの脳

近所を歩いていたら、見慣れたはずの場所が更地になっていた。

更地というものは、妙に堂々としている。
「最初からこうでしたが?」という顔をしている。

こちらとしては、そんなはずはないのだ。
そこには何かが建っていた。何かが。何か……何かが……。

思い出せない。

工事用の柵が並び、ショベルカーが一台、ぽつんと置かれている。
あれは機械というより、土地の番人だ。
黄色くて重くて、黙っている。黙っているのに「お前は何も覚えていないのか」と言っている気がする。被害妄想かもしれないが、ショベルカーはそういう顔をしていた。

白い看板にはこう書かれている。

「近日、ここに新しいマンションが建設されます」

なるほど。
新しいマンション。

つまり、ここにあった何かは、すでに「近日」に負けたのだ。

わたしは更地を見つめながら、ひとつの確信を得た。

ここには、何かがあった。

そして、もうひとつの確信も得た。

わたしは、それが何だったのかを、まったく覚えていない。

スーパーだっただろうか。

いや、違う。
スーパーなら、なくなった瞬間に生活が露骨に乱れるはずだ。
卵を買う動線が変わり、牛乳の位置関係が崩れ、夕方の自分が少し険しくなる。スーパーは地域の内臓のようなものだ。なくなれば、体調に出る。

コンビニだっただろうか。

いや、それも違う気がする。
コンビニが消えたら、もっと具体的な喪失感がある。
「あそこでよく支払いをした」とか、「唐揚げを買った」とか、「必要ないのに新商品を見た」とか、そういう小さな罪の記憶が残るはずだ。

飲食店だったかもしれない。

もしそうなら、「あそこの定食、好きだったのになあ」とか、「一度入ろうと思って結局入らなかったなあ」とか、何らかの感情が湧くはずである。
湧いてこない。
心が、常温の水道水のように静かだ。

では何だったのか。

会社の事務所。
古いアパート。
クリーニング店。
何かの教室。
誰も入っているところを見たことのない謎の店舗。
入口に観葉植物だけが置かれ、営業しているのか休んでいるのか、人間社会との契約が曖昧だった場所。

候補はいくつも浮かぶけど、どれも違う気がする。

記憶の引き出しを開けているのに、中から出てくるのは、丸まったレシートと、昔の充電器(機種不明)と、なぜ取っておいたのか分からない名刺みたいな状態だ。

肝心の建物が出てこない。

考えてみれば、街はいつも勝手に変わっている。

寝ている間に、看板が変わる。
風邪をひいている間に、店が閉まる。
納豆を混ぜている間に、古い家が解体される。

街は、住民に相談しない。

「来週、あそこのビルをなくしますが、心の準備はよろしいでしょうか」
などとは言ってこない。

言ってくれれば、こちらも一度くらい見に行く。
写真は撮らないかもしれないが、せめて「ああ、これだったか」と思うことはできる。
しかし実際には、ある日突然、柵で囲まれている。

柵はいつも事後報告だ。

そして更地は、非常に説明が少ない。

「ここに何があったかは、自分で考えてください」
という態度で平らになっている。

平らになった土地には、過去の凹凸がない。

窓も、ドアも、看板も、人の気配も、配達員が困っていた感じも、店主のラジオも、全部なくなっている

まるで巨大な消しゴムで、街の一部をこすったあとだ。

ただし消しカスは出ない。
そのかわり、マンションが建つ。

ふと、恐ろしいことに気づく。

わたしは以前にも、この現象に遭遇している。

「あれ、ここ前に何があったっけ」

そう思ったことがある。
一度ではない。何度もある。

そして毎回、少し考えて、結局思い出せず、最後にはこうなる。

「まあ、いいか」

この「まあ、いいか」がよくない。

「まあ、いいか」は便利な言葉だ。
人間の脳内に常備された小さなブルーシートといっていい。
分からないもの、面倒なもの、深く考えると不安になるものに、そっとかぶせることができる。

しかし、かぶせたものは見えなくなる。

もしかすると、わたしの記憶の中には、すでにたくさんの更地があるのではないか。

昔あった店。
いつの間にかなくなった家。
通学路の角にあった何か。
駅前にあったはずの、妙に暗い店舗。
名前も、用途も、外観も、もう思い出せない建物たち。

それらはすべて、わたしの中で解体されている。

現実の街だけではない。
頭の中の街並みも、少しずつ取り壊されているのだ。

しかも、脳内の解体業者は無音で働く。
重機の音もしない。
粉じんも出ない。
近隣住民へのお知らせもない。

気づいたときには、もう平らになっている。

さらに余計なことを考える。

もし、わたしの家が取り壊されたらどうなるのだろう。

誰かがその前を通りかかる。
そして、少し首をかしげる。

「ここ、前に何かあった気がするんだけどなあ」

何か。

わたしの暮らしていた場所は、誰かの中で「何か」になる。

そこには机があり、茶碗があり、読みかけの本があり、なぜか捨てられない紙袋があり、冷蔵庫の奥には小さな諦めが保存されていた。
外から見れば、ただの建物だ。

そして建物がなくなれば、ただの記憶の候補になる。
さらに時間が経てば、候補からも外れる。

「あれ、何だったっけ」
「まあ、いいか」

わたしの人生も、誰かの「まあ、いいか」の下に埋まる可能性がある。

別に有名になりたいわけではない。
銅像になりたいわけでもない。
駅前に「この地に住んでいた、やや小心者の人物」と刻まれたいわけでもない。

でも完全に忘れられるというのも、ちょっと寒い。

人は死ぬ。
建物は壊れる。
店は閉まる。
看板は外される。
そして、覚えているつもりだったものも、案外すぐに薄くなる。

記憶とは、思っていたより頼りない管理会社なのかもしれない。

更地の前で、もう一度考えた。

ここには何があったのか。

目を細めてみる。
土地の奥行きを見る。
隣の建物との距離を見る。
電柱の位置を見る。
記憶の中に、過去の景色を重ねようとする。

何も出てこない。

頭の中では、白い空間に、ぼんやりとした箱のようなものが浮かぶだけ。
建物だったのかもしれない。
あるいは、記憶が作ったダミーかもしれない。

しばらく立っていたが、通行人に「更地を長く見る人」として認識されるのにも社会的な限度がある。

諦めて歩き出した。

今日のところは、思い出せなかった。
明日になれば、ふと何かの拍子に思い出すかもしれない。

まったく関係ない会議中に、突然「あっ、あそこは古い自転車屋だった」と脳が言い出すかもしれない

それならそれでいい。

でもたぶん思い出せない気もする。

そして明日には、この更地を見たこと自体、少し薄れているかもしれない。

街は変わる。
建物は消える。
記憶も、知らないうちに均されていく。

それでも、今日だけは思っておく。

ここには、何かがあった。

何だったのかは分からない。

でも、何かがあった。

その「何か」に向かって、わたしは心の中で小さく会釈した。
会釈された側も困るだろうが、更地なので表情は変わらなかった。

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