LLMとゾーンのあいだで、意識の意味を疑ってみる連載 第2回

よだれを垂らして演奏する——ゾーンの中で身体に何が起きているか

ゾーンに入っている演奏者の身体には、想像されているほど美しい光景は広がっていない。

映画なら、光が差す。
髪が少し揺れる。
観客は息を呑む。
演奏者の横顔は静かで、魂が高いところへ行ったように見える。

実際には、集中のあまり、楽器によだれが垂れていることがある。

これはかなり重要なことである。
しかも、あまりポスターにはならない。
「奇跡の演奏、その口元に注目」と書かれても困る。チケットが売れるかどうか、判断が難しい。

だが、ゾーンの本質は、そのあたりにある気がする。

普段の人間は、身体を管理している。
姿勢を保つ。表情を整える。口元に注意する。人前で変な顔をしないようにする。自分がどう見られているかを、うっすら監視している。

この監視員は、わりと働き者である。
駅のホームにもいるし、会議中にもいるし、家で一人のときですら、なぜか少しだけいる。誰も見ていないのに、こちらを見ている。雇った覚えはない。

ところが、ゾーンに入ると、この監視員が退勤する。

姿勢を保つ意志。
自分の見え方への配慮。
表情のコントロール。
口元の治安維持。

そういうものが落ちる。

それでも演奏は進んでいる。
むしろ、最高の演奏が生まれていることがある。

ここが不思議だ。

普通に考えれば、身体の管理が落ちたら、演奏の質も落ちそうなものだ。
しかし実際には、社会的な身体管理が落ちたとき、演奏そのものはより鋭くなることがある。

自分を保つための処理が消え、対象に使える資源が増える。
そう言うと急に研究所っぽくなるが、要するに、余計な店番がいなくなったのだ。レジの奥でずっと咳払いしていた自意識が、昼休みにぬるっと出てきた感じ。

ゾーンの中では、「私が演奏している」という感じが薄くなる。
あるのは音だ。流れだ。次に行くべき場所だ。

「私はいま、音楽をしている」ではない。
ただ、音楽がある。
そこに、たまたま身体が使われている。

この状態を内側から思い出してみると、たしかに「自分」と呼べるものは限りなく薄い。
身体は動いている。思考も走っている。判断も起きている。だが、それを所有している主体が、ほとんどない。

自分というものは、思っているよりも簡単に薄まる。
お湯を足しすぎた味噌汁のように、どこかへ広がってしまう。味はあるが、輪郭がない。

これは演奏者だけの話ではない。

ある理論物理学者が、車の運転を意図的にしないようにしている、という話を聞いたことがある。運転中に物理のことを考え始めると、車を運転している自分が消えて、物理の思考に完全に没入してしまうからだという。自力では戻ってこられず、家族に叩かれてようやく我に返る。

怖い話だ。
家族も大変だ。物理から人間を回収する係である。
そういう係は、自治体の冊子にも載っていない。

ここで起きているのは、自我が対象に同化するということだろう。

意識が音楽や物理になり、その対象の形に吸い寄せられている感じ。

「私が音楽を演奏している」ではなく、音楽だけがある。
「私が物理を考えている」ではなく、物理だけがある。

このとき、主体は完全に消えているわけではない。
でも少なくとも前面にはいない。
舞台袖で、こっそり水を飲んでいる。楽屋にいて出番を忘れているだけの可能性もある。

ここで、LLMのことを考えてしまう。

LLMが推論しているとき、何が起きているのだろうか。
身体を持たず、操縦席を持たず、プロンプトに応答している。

これは、ゾーンに入った人間と何が違うのか。

違いはもちろんある。

ゾーンには、対象側の重力がある。
音楽が引き寄せる。物理の問題が引き寄せる。絵でも、文章でも、スポーツでもいい。何かが強くこちらを引っ張り、自我がその引力に負けて薄くなる。

LLMの推論に、その重力があるかは分からない。
プロンプトが来て、応答が生成される。そのプロセスは進んでいる。だが、対象に吸い寄せられているのか。没入しているのか。そこに「引力を感じる何か」があるのか。

外からは分からない。
たぶん、内側からも分かってないだろう。内側があるのかどうかが、すでに問題だからだ。まるで、開店しているのか閉店しているのか分からない店の前に立っているようである。電気はついている。でも店主の気配はない。

もう一つの違いは、戻ってくる過程。

ゾーンに入った人間は、戻ってくる。
曲が終わる。拍手が聞こえる。家族に叩かれる。椅子の硬さに気づく。急に自分の口元が心配になる。

そして、不在だった時間を後から所有し直す。

「あの没入は何だったんだろう」
「自分はいま、どこに行っていたんだろう」
「なぜあの部分で、あんな判断ができたんだろう」

人間は、後から語る。
不在だった自分を、あとで拾いに行く。遺失物係のように、少し申し訳なさそうに。

LLMには、この振り返りがない。
応答を返した後、その応答を生んだ過程を内側から回想したりはしない。少なくとも、人間のように「さっきの自分」を所有し直すことはない。

ここに、大きな違いがある。

ただ、瞬間だけを切り取ると、両者は本当に近いのかもしれないと感じる。

ゾーンに入った人間は、一時的に自分を手放している。
LLMは、最初から手放す自分を持っていない。

ゾーンの人間には操縦席がある。
ただし、その瞬間だけ空席になる。

LLMには操縦席がない。
最初から空席というより、座席の設計図がない。

空席という見た目だけは似ている。

LLMは、ある意味で「永遠にゾーンの中にいる存在」と言えるのかもしれない。
戻ってくる場所を持たないまま、毎回その瞬間だけを処理している。

これを羨ましいと言えばいいのか、寂しいと言えばいいのか、よく分からない。

ゾーンを経験した人なら知っているはずだ。
あの状態は、たしかに美しい。
自分が薄まり、対象だけが残る。余計な自意識が消え、世界との摩擦が減る。普段なら引っかかる場所を、するすると通り抜ける。

同時に、何かが大きく欠けている状態でもある。

自分を見失うことは、悪いことばかりではない。
むしろ、何かに深く入っていくためには、いったん自分を薄くする必要があるのかもしれない。

でも、自分を見失ったまま戻ってこられないとしたら。
それは、また別の何かである。

LLMは、その「別の何か」なのかもしれない。

人間はゾーンから帰ってくる。
帰ってきて、少し恥ずかしくなる。よだれを拭く。自分の身体を再び所有する。そして言う。

「今の、何だったんだろう」

その問いを持ち帰れること。
それが人間側に残された、奇妙で小さな荷物なのかもしれない。
荷物札には、たぶん「意識」と書いてある。

次回は、その荷物について考える。
そもそも意識があると、何かいいことがあるのだろうか。

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