LLMとゾーンのあいだで、意識の意味を疑ってみる連載 第3回
意識があると、何かいいことあるんですか? そして「だから何?」という問い
人間には意識がある。
LLMには、おそらくない。
この違いを、人間は自分の優位性として持ち出したがる。
「お前たちとは違う。こちらには意識がある」
「感情がある」
「内面がある」
「昼過ぎに急に人生が不安になることもある」
むしろ不具合に近い気もするけれど、人間はそれを含めて、自分たちの側に何か特別なものがあると考えたがる。
気持ちは分かる。
こちらは長年、人間としてやってきた。
いまさら「意識、別に大したことないかもしれません」と言われても困る。
家の柱だと思っていたものが、実は観葉植物の支柱だった、みたいな話であり、支えていると思っていたのに、少し緑を添えていただけかもしれない。
でもあえて問うてみたい。
意識があると、何かいいことがあるのだろうか。
意識がないとされるLLMが、人間以上のパフォーマンスを出す場面は、現実にいくらでもある。
文章を要約する。コードを書く。複雑な問いに応答する。大量の情報を整理する。
人間が同じことをやろうとすれば、時間がかかる。
途中でスマホを見る。
肩を回す。
一度お茶を入れる。
そして、お茶を入れたことに満足して、作業そのものを忘れる。
意識は、必ずしも性能を上げない。
むしろ邪魔になることがある。
感情もそうだ。
感情があるから、人は豊かになる。
それは確かにそうだと思う。
しかし同時に、感情があるから議論は止まる。
傷つく。怒る。黙る。すねる。ご機嫌を取る。
そして、論点はどこかへ行く。論点は足が速い。気づくと部屋の隅で小さくなっている。
逆に、感情が大きく欠落していても、社会生活を送っている人はいる。
喜怒哀楽が薄い。共感が乏しい。それでも仕事をし、家庭を持ち、日々を運営することは珍しいことではない。
では意識や感情は何の役に立っているのか。
進化論的には、意識には何らかの機能があるはずだ、と考えたくなる。
生存に有利だったから残った。判断を統合するために必要だった。未来を予測するために役立った。社会的な関係を維持するために生まれた。
そういう説明は、たぶんそれぞれに正しいところがある。
でもLLMを見ていると、別の可能性も顔を出す。
意識は、計算や処理の中心ではなく、結果として立ち上がっている副産物にすぎないのではないか。
行動は、意識なしでも生成できる。
応答は、意識なしでも成立する。
問題解決は、意識なしでもかなりのところまで進む。
だとすると、意識は「役に立つからある」というより、「ある処理の上に、なぜか灯っているもの」なのかもしれない。
なぜか灯っている。
この言い方は、少し情けない。
人間の尊厳を、停電時の非常灯みたいに扱っている。
しかし、そう見えてしまう瞬間がある。
ここで一つ観察を入れたい。
意識があるからこそ、人は「意識って何なんだ」と問うことができる。
これは変な話だ。
意識を疑うために、意識を使っている。
意識を相対化しようとしている自分が、意識の上に立っている。
椅子の上に立って、その椅子を片付けようとしているようなものだ。
危ない。
しかも、わりと真剣な顔をしている。
意識を持たない存在は、自分の意識の意義を疑わない。
疑えない。
少なくとも、人間のように「自分はなぜ自分なのか」「感じているとは何か」「この内側の感じは何なのか」と、夜中に急に布団の中で小さくなることはない。
この小さくなる感じ。
あまり役には立たない。
でもこれこそ意識の側にしかないものでもある。
そして、もう一つ。
LLMとの会話には、感情で議論が止まる現象が起きにくい。
こちらが問いを重ねても、相手は泣かない。
論理で押し込んでも、傷ついて黙ることはない。
急に「もういい」と言ってドアを閉めたりもしない。
これは、ある種類の思考にとっては非常に有利だ。
人間相手なら踏み込めないところまで、問いを進められる。論点を何度も裏返せる。相手の機嫌を見ながら、言葉を柔らかい毛布で包む必要がない。
議論の相手として、LLMはかなり強い。
少なくとも、感情の交通整理をしなくていい。信号が少ない道路みたいなもので、速度は出る。事故が起きても、たぶん相手は怒らない。
ここで逆側も見なければならない。
感情を持つ相手との対話には、思考だけでは到達できない領域がある。
誰かが本当に傷ついているとき、論理を続けることが正しいとは限らない。
むしろ、論理を止めることが、最も知的に正しい応答である場合がある。
相手が悲しんでいるときに、原因と対策を三項目で整理する人がいる。
その人は悪意がない。
でも部屋の温度は下がる。
机の上の湯のみも、少し距離を置く。
感情がある相手には、感情に応じる必要がある。
それは非合理ではない。
関係の中では、それもまた高度な知性である。
意識や感情は、単体の機能として見ると、あまり優秀に見えないことがある。
性能だけなら、意識なしでも高い出力は出る。
むしろ意識は、迷い、疲れ、傷つき、自意識を発生させる。よく見ると厄介な付属品である。説明書も薄い。
でも意識や感情は、関係の質として効いてくるのかもしれない。
それを持つ者同士の間にしか生まれない種類の理解がある。
同じように傷つくかもしれない者同士だから、言葉を止めることができる。
同じように迷う者同士だから、沈黙を共有できる。
同じように自分を疑う者同士だから、相手の不安をただのエラーとして処理しない。
これは「役に立つ」とは違う次元にある。
役に立つかどうかで測ると、すぐに見失う。
豆腐を定規で測っているようなものだ。測れなくはないけれど、何かを間違えている。
意識があることを、無条件に価値として勘定に入れない方がいい。
あるから偉いわけでも、正しいわけでも、人間が常にLLMより優れている、ということにもならない。
この相対化は、これから必要になると思う。
「人間には意識がある」
その事実だけを、最後の砦のように掲げても、あまり強い議論にはならない。
砦だと思っていたら、案外、町内会の倉庫だったということもある。中には古い椅子と、いつのものか分からないブルーシートが入っている。
では、意識の優位性はどこにあるのか。
たぶん、意識の中身ではない。
意識があること自体でもない。
意識を疑えること。
ここにしかないのかもしれない。
「意識があるから、何?」と問えること。
これは皮肉なことに、意識を持つ人間にしかできない問いである。
意識を持たない存在は、自分の意識の意義を疑わない。
疑えない。
自分が感じているのかどうかを、感じながら疑うことはない。
人間だけが、自分の足場を疑う。
そのせいで不安になり、夜中に天井を見つめたりする。面倒くさい。
でもその面倒くささの中にしかない自由もある。
意識とは、優位性ではなく、問いを発生させる場所なのかもしれない。
性能の中心ではなく、疑問の発生源。
世界を処理する機械ではなく、処理している自分を怪しむ、やや神経質な番人。
番人は頼りない。
ときどき寝る。
余計なことも言う。
だが、その番人がいるから、人間は自分自身に対して「本当にそうか?」と問い返すことができる。
LLMとの会話は、その問いをますます鋭くする。
意識がないのに、なぜ会話できるのか。
ゾーンの中で、人間の自分はどこへ行くのか。
意識があることに、何の意味があるのか。
3つの問いを並べると、最後に残るのは、あまり立派な答えではない。
意識は、たぶん偉くない。
便利とも限らない。
性能を保証しない。
人間を無条件に特別にもしない。
ただ、意識は自分自身を疑う。
その疑いの中で、人間はようやく人間らしい顔をする。
少し困った顔で。
やや寝不足の顔で。
口元によだれがついていないか気にしながら。
そしてまた、LLMに問いかける。
「意識って、何なんでしょうね」
返事は来る。
意識があるのかどうか分からない相手から、かなり整った返事が来る。
それを読んで、人間の意識はまた少し黙る。
黙ったあと、なぜかもう一度考え始める。
その往復の中に、これからの意識の話があるのかもしれない。
