ヨガからストイシズムへ、そして三波春夫へと至る思考
久しぶりにヨガの教科書を読み返していて、ふとこんなことを考えた。
個人崇拝というものは、たいがい中心を欲しがる。
たとえば誰か一人が、
真理を持っている、とか、
正しい、とか、
なぜか妙に光っている、など。
そういう状態になると、人はその人物の言葉を聞く前から、すでに少しうなずいてしまう。まだ何も言っていないのに、うなずきの準備運動を始める。首の筋肉が思想に先行する。これはあまりよくない。
ヨガの八支則とストイシズムは、遠い親戚のように思えた。顔立ちは似ていないのに、箸の持ち方だけ妙に同じ、というような不思議な近さがある。どちらも、誰かを仰ぎ見るより先に、自分の姿勢、呼吸、欲望、反応をひとつずつ整えていく道なのではないか。
※ストイックであることと、ストイシズムは結構違う概念です。
そしてそのストイシズムの奥には、答えを持つ人間を中心に置くのではなく、問い続ける態度そのものを大事にしたソクラテスの影が見える。
真理を金庫に入れて、鍵を首からぶら下げている人がいない。
いたとしても、その鍵が本当に鍵なのか、まず問われる。
鍵穴も問われる。そもそも金庫が必要なのかも問われる。
ソクラテスは、そういう面倒な人である。だが面倒な人がいないと、人類はすぐに大きな顔の銅像を作りたがる。銅像は便利だ。反論もしてこないし。
このへんはまるっきり聞きかじりの内容だけれど、ストア派の創始者ゼノンは、キュニコス派のクラテスに学んだとされる。キュニコス派はソクラテス的伝統に連なる流れであり、アンティステネス、ディオゲネス、クラテス、そしてゼノンへと続いていく。つまり大きく見れば、ソクラテスからキュニコス派を経てストア派へ、という細いがしぶとい水路がある。水路というより、古い商店街の裏にある排水溝のようなものかもしれない。目立たないけど、思想の水はそこを流れていた。
ソクラテスの強さは、「私が知っている」と言わなかったところにあると思う。
もちろん彼は、ただの謙虚なおじさんではない。謙虚を武器に相手を追い詰める、かなり厄介なタイプの謙虚だ。でもその厄介さの中心には、「誰も真理を独占できない」という姿勢があるようにも感じる。
ソクラテスの対話は、基本的に結論にたどり着かない。アポリアというらしい。要は行き詰まりで終わる。現代の会議なら「結論が出ていない」と怒られるところだ。議事録係も困る。「本日の結論:全員よく分からなくなった」。でも、それにこそ意味がある、としている。ほらちょっと厄介。
分からないことを、分からないまま共同で抱える。
誰かが勝手に神棚へ上がるのを防ぐ。
それは、思想における転倒防止マットのようなものなのかもしれない。
でもここには皮肉もある。
ソクラテス自身が後世にかなり偶像化されてしまったのだ。プラトンの対話篇の中のソクラテスは聖人のように見える。ヘレニズム期の哲学諸派も、「ソクラテスこそ我らの祖」などと言いたがった。
個人崇拝を防ぐ思想の源流にいる人物が、結果として強烈に崇拝される。
これは、雨具メーカーの創業者が毎日ずぶ濡れで出勤していた、みたいな話だ。おかしいけど、分からなくもない。
ここで話を急に日本へ移したい。
哲学の話をしていたのに、いきなり三波春夫。古代ギリシアの柱廊に着物姿の歌手が立つ。でもそれでいい。思想というのは、ときどき時代や地域をまたいで、知らない親戚の法事みたいに同じ座敷へ集まるものなのだ。
「お客様は神様です」という言葉は、長らく誤解されてきた。
客は神なのだから、店員は何を言われても耐えろ。
客は神なのだから、理不尽も神託である。
客は神なのだから、返品期限など人間界の些事である。
そういう使われ方をしてきた。
三波春夫の公式サイトでは、この言葉は商業主義的な意味ではなく、歌い手が舞台に立つとき、神前で祈るような澄んだ心で芸を届けるための心構えだったと説明されている。客に媚びるための言葉ではなく、芸に向かう自分を整えるための言葉だったのだ。
つまり、この「神様」は、客を絶対権力者にする言葉ではない。
むしろ、舞台に立つ自分の自我をいったん薄めるための装置だ。
「俺が歌ってやる」ではなく、
「私はここで何かに向き合っている」
という状態に入るための、精神の白装束のようなもの。
この感覚は、お天道様に近い。
お天道様は、命令しないし、細かい規約も配らないし、違反者講習も開かない。
ただ、見ている。
「お天道様に顔向けできない」という言葉には、誰か特定の権力者に叱られるのとは違う怖さがある。自分の中にある規範をいったん外に置いたような感覚に近い。
見ているものは外にある。
でも、見られている感覚は内側にある。
心の中に、小さな縁側があり、そこに無言の老人が座っているような感じだ。こちらが悪いことをしようとすると、その老人が茶をすすりながら少しだけこちらを見る。何も言わない。ただ視線を突き刺してくる。先の丸まった槍で。でも何も言わない。
お天道様や、三波春夫の「神様」は、こう捉え直すこともできる。
自分の中にある、自分を見ているもう一人の自分なのではないか。
このもう一人の自分は、あまり派手ではない。拍手もしない。怒鳴りもしない。たぶん、名刺も持っていない。
でも、こちらが妙なごまかしをしようとすると、どこからか現れる。
「それ、ちょっと違くね?」
と、言葉にならない感じで言ってくる。
ここで大事なのは、自分で自分を崇拝することはできないという点だ。
もちろん、自己愛はある。自尊心もある。鏡の前で少し角度をつけることもある。それは崇拝とは違う。崇拝には、心と体に距離が必要だ。対象が自分から離れていて、しかも少し高い場所にいなければならない。いつでもハグできる教祖のことを崇拝するのはなかなか難しいのではないか。
でも自分を見ている自分は、自分でありながら自分ではない。
近い。
でも完全には重ならない。
家族の中で一人だけ敬語を使ってくる親戚のような、絶妙な距離がある。
この距離が、崇拝の手前で踏みとどまる装置になる。
ソクラテスの「ダイモニオン」も、ここで思い出される。ソクラテスのダイモニオンは、彼に何かを命じるというより、ある行為を禁じる内なる声として説明されている。それは単純な良心とも言い切れない、神的あるいは半神的なものと見なされた不思議な現象だった。(スタンフォード哲学百科事典より)
自分の中にある。
でも、自分の思い通りにはならない。
命令ではなく、制止として現れる。
これはお天道様の視線に似ている。
「やれ」とは言わない。
「それはやめておけ」と、障子の向こうで気配だけを出す。
その気配があるかぎり、人は自分を神にしにくい。
ここで八百万の神という補助線を引くと、話はさらに立体的になる。
八百万の神の世界では、神性は一か所に集中しない。
山にも神がいる。
川にも神がいる。
竈にも神がいる。
厠にも神がいる。
厠にも神がいる、というところで、世界はかなり信用できる気がしてくる。清潔とか不浄とか、人間が勝手に作った分類を、神々はあまり気にしていないのかもしれない。ありがたいような、少し落ち着かないような話だ。
八百万の世界観では、神性が無数に分散している。
だから、どの神も絶対的な中心になりにくい。
どの神も、すべてを独占しない。
神々はいるけど、神の一極集中は起こらない。
これは個人崇拝に対してかなり強い構造だ。
誰かが「我こそ神の声を伝える者なり」と言ったとする。
八百万的な感覚では「そうですか。でも、あの石にも神がいますし」と返せる。
この返答は強い。
声を荒らげてない。
論破もしてない。
ただ中心をずらしている。
個人崇拝は、中心を必要とする。
しかし、八百万の神は中心を薄める。
神性を霧のように世界へ散らす。
霧はつかめない。
つかめないものは、玉座に座らせにくい。
ここで現代の問題も出てくる。
私たちは今、かつてないほど「見られている」。
SNSのタイムライン。
フォロワー。
いいね。
引用。
沈黙。
既読。
未読。
なぜか減るフォロワー。
これらは現代の小型お天道様のように見える。実際には少し違う。
お天道様の視線は、誰のものでもなかった。
誰のものでもないから、誰にも忖度しなくてよかった。
でもSNSの視線は、特定の誰かの視線である。
ある界隈やクラスタ、ある雰囲気、その日たまたま機嫌の悪い人たちの視線だったりする。
それを内面化すると、「自分を見ている自分」は、いつの間にか「特定の誰かに怯えている自分」になる。
これはもうお天道様ではない。
お天道様は、こちらの投稿時間を見ない。
エンゲージメント率も見ない。
プロフィール文の微妙な思想臭も点検しない。
ただ、見てるだけ。
この「ただ見てる」という非人格性が、実は大事だったのだと思う。
誰のものでもない視線だから、それは誰にも所有されない規範だし、誰かの機嫌に左右されたりもしない。
それを失うと、人はすぐに、小さなカリスマや小さな群衆に自分を預けてしまう。預けたつもりはなくても、気づくと心の玄関に知らない靴が増えている。しかも、だいたい脱ぎ方が雑だったりする。
ソクラテスの「無知の知」。
お天道様。
三波春夫の「神様」。
八百万の神。
そして、自分を見ている自分。
これらは時代も文化も違う。
古代ギリシアの広場と、日本の縁側と、舞台の客席と、山川草木と、心の中の小さな監視員。並べてみると、ずいぶん変な集合写真になる。誰もカメラ目線ではないけど、なんか同じ方向を向いている。
その方向とは、権威を一か所に集めないということではないか。
真理や神性一人に持たせない。
視線を特定の誰かに所有させない。
自分自身さえ、完全には中心に置かない、というような。
個人崇拝への抵抗は、「崇拝するな」と大声で叫ぶことから始まるのではないのかもしれない。
大声で叫ぶと、その声の主がまた少し中心になる。
中心になると、人は旗を作る。
旗を作ると、だいたいその下で誰かが張り切りすぎる。
そうではなくて、崇拝が成立する構造そのものを、静かに無効化していく。
お天道様は、標語にした瞬間に少し痩せる。
八百万の神も、体系化しすぎると会議資料みたいになる。
ソクラテスも、銅像にするとたぶん少し困った顔をする。
自分の中の小さな縁側で、無言の何者かがまだ茶をすすっていることを、たまに思い出したいと思った。
